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大昔の話

 三人の眼の前に、刺身や香の物を載せた大きな膳が次々と置かれる。季節を感じさせる筍の飯物に、柚子餡を添えた胡麻豆腐。海老の天麩羅に、こじんまりとした器に入った茶碗蒸し。略式の懐石料理といった感じで、見た目にも豪華だ。表で品書きを見た時は大層な値段だと思ったが、この内容なら納得できる。 「毎年、お墓参りはいつもこの時期に来ているの。あの人、桜が好きだったから」  眼を伏せて、彼女はかつての夫のことを口にした。 「今年は開花が遅れましたね」 「そうね。先週は肌寒い日が続いたから。花の蕾も凍えてしまったのでしょうね」  そう言うと彼女は、昔を懐かしむような瞳で篠宮の顔を見た。 「正弓さん。あなたには本当に酷いことをしてしまったわ。今さら謝罪の言葉を聞かされても、怒りが増すだけかもしれない。でも貴弓さんのお墓の前にいる人を見て、それが他でもない自分の子だと思ったら、どうしても声をかけずにはいられなかった……まだ小さかったあなたを置いていったことについては、許してとは言わないわ。でも生きているうちに、一目だけでもあなたに会いたいと思った……その母親の心だけは、どうか許してほしいの」 「いえ、許すも何も……もう過ぎたことですから」  篠宮は穏やかな声で答えた。こんなに静かな気持ちで母と話ができるのは、自分でも意外だった。両親に対して怒りを感じたことはないが、二人のことを考えるたびに、苦い思いに胸を苛まれたのは事実だ。  結城と出逢っていなければ、こんなに冷静に過去の記憶と向き合うことはできなかったかもしれない。いや。そもそも結城が居なければ、今日ここへ来ることもなかったのだ。 「正弓さんも、もう二十六になったのね」 「ええ、そうです」 「あの人に……貴弓さんに、本当によく似てるわ」  抑えた声が微かに震える。その眼に涙がにじみ出て、彼女は慌てて指で目頭を押さえた。 「……ごめんなさい。見苦しいわね」  鞄からハンカチを出し、彼女はそれを握り締めたまま健気に微笑んだ。 「私が家を出た理由……あなたには、どんな風に伝わっているのかしら」 「親戚の人が話していたことは、そばで聞いていました。ですが、あくまでも噂話です。本当のことかどうかは判りません」 「そうね。いいわ……私の口から話します。もしかしたら噂話のほうがましかもしれないけど、あなたには真実を知っていてほしいの」  微かに自嘲気味の笑みを浮かべてから、彼女は覚悟を決めたように話し始めた。 「恥ずかしい話だけど、今だから告白するわ。私ね。実は、女優を目指してたの。まだ若い頃……大昔の話よ。都会に出ればチャンスがあるかもと思って、安直な考えで家を出たのが、十八の時だったの」  篠宮は視線を上げ、失礼にならない程度にさりげなく彼女の顔を見遣った。見た目の美しさだけが女優のすべてではないが、彼女の顔立ちには、たしかにそういう道を目指しても良いくらいの華やかさがあった。 「その後、篠宮の家で住み込みの仕事を見つけて……そこで貴弓さんに逢ったのよ。初めてあの人を見た時、驚いたわ。背が高くて、顔は彫刻のように整って……本当に素敵だった。一目で夢中になってしまうくらいに」  そこまで言うと、彼女は結城のほうを見て苦笑いを浮かべた。 「ごめんなさい。こんなおばちゃんの、昔の恋の話なんて聞きたくないでしょう」 「そんな事ありません。それに……俺にも解ります。一目惚れの気持ち」  結城が即座に答える。その言葉に勇気づけられたのか、彼女は静かに眼を伏せて話し続けた。 「最初は、ただの憧れだったのよ。だって私はただの使用人、あの人は地元でも有名な旧家のお坊ちゃんだったんだもの。でも、そんな私にあの人はこう言ってくれたの。人の貴賎は出自で決まるものじゃない。持って生まれた輝きで決まるんだって……ただの山出しの小娘だった私に、あの人は色々なお作法を教えてくれた。国際的な女優になりたいなら、そういったマナーを覚えることも必要だろうって」  代々続く外交官の家で作法を学んだというだけあって、彼女の所作は、そのひとつひとつが洗練されて美しかった。 「私のほうは完全に一目惚れだった。でも、あの人がいつから特別な感情を私に抱いていたのかは、分からないわ。二人で会って話すうちに、結婚を考えるほどになったけど……もちろん許してもらえるはずもなくて、駆け落ちするしか方法がなかったの。その頃には、女優の夢なんてすっかり諦めてたわ。だってね。私なんかより、あの人のほうがずっと綺麗なんだもの。自信なくしちゃうわよね。でも、夢を諦めることを残念とは思わなかった。あの人と一緒に居られれば、それだけで幸せだったの」  元々、女優なんて器じゃなかったのよ。彼女はそう呟いて笑った。 「私はね。生活に必要なお金さえあれば、それより上のことなんて望んでいなかったのよ。でも、あの人はそうじゃなかった。私に人並み以上の生活をさせようとして、必死だったの。私が働くことも認めてくれなかったわ。お金なら自分が稼ぐからと言い張って。こんなことを言って、ショックを受けないでほしいのだけど、あなたが産まれた時もあの人はあまり喜んでくれなかったの。私のほうは、これ以上の幸せはないと思えるほど嬉しかったのに」  父は母に、女優の夢を諦めさせたくなかったのかもしれない。篠宮は直感的にそう思った。話を聞いただけでなんとなく父の気持ちを推し量れるのは、自分が彼の血を引いているからかもしれない。

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