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運命を感じたのなら

「そんな時に、ある男が現れたの。元は篠宮の家の運転手だった男よ。私のことを、以前から好きだったと言って……どうしても諦めきれず、後を追ってきたのだと話していたわ。それが本当のことだったのか、今となっては分からないけれどね。田舎育ちの私を上手く騙せば、小遣いをせびり取れると考えたのかもしれないわ。今ではそう思っているの」  淡々と語る彼女の口調が、それがろくな男ではなかったことを想像させる。  実際、ろくな男ではなかったのだろう。酒かギャンブルか……大方その辺りで身を持ち崩した人間が、金を出してくれそうな伝手(つて)を求めて、知り合いを渡り歩く。よくある話だ。 「その男は言ったの。貴弓さんは私のことを愛してなんかいない。愛しているなら、こんな風に妻と子どもをを放っておくようなことはしないって……私は、その言葉を信じてしまった。馬鹿ね……二人の間に溝ができかかっているなら、話し合って埋めるべきだった。私はきっと、貴弓さん以外の人とは幸せになれなかったの。今なら、それが分かるのに」  一瞬くちびるを噛み締めたものの、彼女は気丈にもそのまま話し続けた。 「その男はね。女心をよく解っていて、優しい言葉や仕草で私を喜ばせてくれたの。でもそれは、花火のように一瞬だった。あの男とは一年もしないうちに別れたけれど、自分から出て行った手前、よりを戻そうと貴弓さんに言い出すことはできなかった。若かったのね。つまらない意地を張って……そして、永遠にあの人を失ってしまった」  眼の縁を赤くしながら、彼女は真剣な表情で篠宮を見つめた。 「だから……正弓さん、あなたには後悔しないで生きていってほしい。本当に心の底から愛しいと思える人と、最後まで添い遂げてほしいの。あなたが選んだのがどんな人でも、私は決して反対しないつもりよ。この人こそはと思える人に出逢って、運命を感じたのなら、あなたの選択はきっと間違ってはいないわ」  余計なものに惑わされて、真実の愛を捨てることがあってはならない。それは彼女の経験から出た言葉なのだろう。  なんと返事をしてよいものか、篠宮は言葉に詰まった。この人こそはと思える人。その人は、いま自分のすぐ隣にいる。 「あ……あの。お料理。冷める前に、いただきませんか」  その場の重苦しい雰囲気を打ち払おうとしたのか、結城が唐突に口を開いた。 「……そうね。いただきましょう」  結城の言葉を聞いて、彼女が箸を取る。同じように箸を持ち、篠宮は吸い物に口をつけた。だいぶ冷たくなってはいるが、もてなしの料理として失礼にならない程度には美味だ。 「この鯛と豆腐の重ね蒸し、美味しいですね。家で作れないかな」  結城がいつもの口癖を呟く。外食で気に入った物があると、彼はすぐにこの言葉を口にするのだ。料理のできない篠宮とは、根本的に発想が違う。 「あら。結城さんはお料理をなさるの?」 「ええ、けっこう好きなんですよ。篠宮主任にも、何度か食べていただいたことがあります」 「結城さんは器用そうだから、きっとお上手なのでしょうね。そうでしょう、正弓さん?」 「ええ」  和やかな会話がごく自然に進んでいく中で、篠宮は、やはり結城がこの場に居てくれて本当に良かったと心から感じた。自分一人では、二十年ぶりの母との再会という、この深刻な場面を乗り切ることなど到底できなかっただろう。  だが、篠宮にはひとつ心に引っかかることがあった。母の連絡先を聞いていないことだ。知っておきたいのはやまやまだが、彼女のほうから教えてくれない以上、無理に聞き出すわけにもいかない。  連絡先を交換しようと、はっきり申し出てみようか。そうは思ったものの、なかなか決心がつかない。名刺を差し出した時に返事をもらえなかったことが、彼女の答えを指し示しているような気がする。 「篠宮主任のお母様は、どちらにお住まいなんですか」  篠宮の内心を察したのか、結城が絶妙なタイミングで、住んでいる場所のことを話題に出した。 「名古屋よ。オーダーメイドの鞄のお店を経営しているの。この鞄も、うちで作った物なのよ」  彼女がそう言って自分の鞄を見せてくれる。上質で、ほんの少し個性的な感じだ。鞄にこだわる人は多いから、自分好みにできるとなればけっこうな数の注文が来ることだろう。だが、篠宮にはそれ以上に気にかかることがあった。  経営者ともなれば、名刺くらいは常に持ち歩いているはずだ。それを渡してくれないのは、つまり、彼女がこの先の交流を望んでいないということなのだろう。

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