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一抹の寂しさ

「……出ましょうか」  彼女が食後の茶を飲み終えたのを見て、篠宮はそう促した。ここで別れたら、自分のほうから彼女に連絡をするすべは無くなるが、それも仕方のないことだ。 「ああ。勘定は、私が」  自らの鞄から財布を出そうとする彼女を、篠宮は手を振って制した。 「でも……」 「そうさせてください。そのくらいの給料はもらっています」  篠宮は静かな声で、自分が支払いをする旨を告げた。今の自分は、彼女の記憶の中にいるような幼い子供ではない。働いて自分の力で生活し、職場では部下もいる立場なのだ。 「……立派になったのね」  眼を細め、彼女は感慨深げに呟いた。別に母親というものに幻想を抱いているわけではないが、その瞳の中には、我が子を思う情が確かに存在するような気がする。ならばなぜ、連絡先を教えてくれないのか。篠宮にはそれが不可解だった。 「あなたがそう言うなら、お言葉に甘えることにするわ。ここは狭いから、外で待っているわね」 「ええ……結城、君も表で待っていてくれ」 「分かりました」  心得たとばかりにうなずいた結城が、母と共に扉のほうへ歩いていく。カードで支払いを済ませ、篠宮は店を出た。入り口の横にいた二人が、篠宮のほうに顔を向ける。 「ご馳走さま。とても美味しかったわ」  彼女が深々と頭を下げた。こうして並ぶと、身長は篠宮の肩くらいだ。その隔たりが、遠く離れたまま過ぎていった年月を感じさせた。 「こちらへは、どのようにいらっしゃったのですか」 「車なの。そこに停めてあるわ」  彼女が近くを指差した。そばの駐車場に、白い車が停まっている。そこからひとつ空けて隣にあるグレーの車は、篠宮のものだ。駐車場の利用者は少ないようで、停まっているのはその二台のみだった。 「では、そこまでお送りします」  篠宮と結城が並んで、車の横まで彼女を見送る。母が運転席に乗り込み、いよいよ去っていく時になると、篠宮はたまらず窓越しに言葉をかけた。 「それでは……また」  その『また』とはいつなのか。もしかしたら、永遠に来ないのではないだろうか。それを思うと、一抹の寂しさが胸の奥に生まれた。 「ええ、そうね」  それだけ答えると、彼女は篠宮から視線を外し、真剣な面持ちで結城の顔を見つめた。 「結城さん」 「はい」  いきなり話しかけられ、結城が表情を引き締める。 「こんなこと、私が言えた義理ではないのだけど……正弓のこと、どうぞよろしくお願いします。あなたのような人が正弓のそばに居てくれて、本当に良かったわ」 「えっ! あっ……あの」  結城が、めずらしく動揺した声を出した。たちまちのうちに耳まで真っ赤になりながら、それでも声を振り絞って小さく返事をする。 「はい……」  妙に密度の高い二人の会話に、篠宮は首を傾げた。  よろしくお願いしますとはどういう意味なのか。会社の仲間としてよろしくという事なのだろうか。それにしては意味深な言いかただ。結城が柄にもなく赤面していることも、どことなく気になる。  もしかして結城は、自分たちが恋人同士だということを彼女に話してしまったのではないか。一瞬、そんな想像が頭をかすめる。  いや。そんな事はないだろう。すぐに頭を振って、篠宮はその考えを自ら否定した。  結城と彼女が二人きりで話した時間が何分程度だったか、篠宮は思い返してみた。話したとすれば、食事が済んだ後に二人が店先で待っていた、あの瞬間しかない。  結城たちが店の外に向かっていくのを横目で見遣りながら、店員に伝票を出し、クレジットカードの承認を待つ。待っている時間は長く感じるものだが、それでも二分は経っていなかったはずだ。  その僅かな時間に、結城は彼女にすべてを説明したというのだろうか。篠宮と自分が同性の恋人同士であるということを告げ、彼女の動揺が収まるまで待ち、二人の関係に許しを得る。まさか。いくらなんでも無理だ。 「じゃあね、正弓さん。元気で」  篠宮の内心も知らず、冴え冴えとした美しい笑みを見せ、彼女は窓を閉めて走り去っていった。

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