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感謝の言葉

 桜の樹がさわさわと揺れる音で、篠宮はふと我に返った。 「……私たちも、そろそろ戻ろうか」  車が去ってしまうと、ここで母に会ったのは夢ではなかったのかという気がする。太陽は真上にのぼっていたが、僅かに増えた雲が流れるたびに光をさえぎり、地表の明るさを目まぐるしく変えていた。 「あの……篠宮さん。俺、お母さんから名刺を預かりました」  唐突に口を開き、結城がそっと右手を差し出した。  手渡された名刺を、篠宮はまじまじと見つめた。代表という文字の下に『篠宮結衣子』の名があり、店舗の住所と電話番号が書いてある。もしかしたら、自宅兼店舗の住所なのかもしれない。 「いくら言い訳しても、自分が篠宮さんを捨てていったっていう事実は変わらない。今日会ったことをきっかけに、今までのことを水に流してとはとても言えない……そう言ってました。この名刺を篠宮さんに直接渡さなかったのは、自分にはその資格がないと思ったからなんでしょうね。いつか、どうしても篠宮さんのほうから連絡を取らなければいけない時が来たら、俺の手で渡してほしいって頼まれたんです」  謎が解けた思いで、篠宮は手元の名刺をもういちど見返した。夫以外の男の元に走った身で、置いていった我が子と、今さら連絡先を交換しあうことに後ろめたさがあったのだろう。結城の言葉を聞いて、篠宮は初めて母のその気持ちに思い至った。 「でも俺、篠宮さんに隠し事なんてできないから。もう渡しちゃいます。それと……もうひとつ」  手に持った封筒から、結城は一葉の写真を取り出した。 「これは……」  それは、どこかの写真館で撮ったと思われる古い家族写真だった。端正な顔をした青年と、赤ん坊を抱いた女性が並んで写っている。自分が生まれて間もない頃の写真だということはすぐに判った。 「お宮参りの時に撮った写真だって話してました。肌身離さず持ち歩いてたみたいです。大事な物だけど、正弓に持っていてもらいたいからって」 「あの人は……どうして君に、これを」  なぜ母はその大事な物を、会ったばかりの結城に託したのか。彼女には、結城は会社の部下であるという説明しかしていなかったはずだ。 「たぶん……このせいです」  結城が左手の甲を篠宮に向けた。薬指には流線形の模様がついた指輪が輝いている。それと左右対象の指輪が自分の指にはまっていることを、篠宮は思い出した。 「ぱっと見ただけじゃ気がつかないだろうけど。あんな向かいの席でまじまじと見較べたら、さすがに判りますよね。うまく誤魔化したつもりだったんだけどな。詰めが甘かったですね」  苦笑いしながら、結城は車のドアを開けて運転席に滑りこんだ。 「あの……篠宮さん。怒ってます?」  結城が身をすくめて篠宮の顔色をうかがった。 「なんの話だ? どうして私が怒らなきゃいけないんだ」 「だって。この指輪のせいで……篠宮さんの恋人が男だって、お母さんに知られちゃったし」  しょぼくれた顔で、結城は自らの指輪を見下ろした。外出時には必ずつけろと恋人に強要したことを、気に病んでいるらしい。 「怒ってなんていない。結城……ありがとう。君のおかげだ」 「へ? 君のおかげって……何が?」 「君が墓参りに行こうと言ってくれなかったら、今日ここであの人に会うこともなかった」 「え……」  滅多に出ない素直な感謝の言葉に、結城が照れた顔を見せる。篠宮はその瞳をじっと見つめ返した。視線が絡み合い、二人の間の空気が甘く変わり始める。 「篠宮さん……」  優しく眼を細め、結城が篠宮のほうに向かって身を乗り出した。  左手を篠宮の肩にかけ、軽く引き寄せる。キスするつもりなのかと思ったが、次の瞬間、彼は眉をしかめて複雑な表情を見せた。 「どうしたんだ」 「えーと。キスしたいけど、今ここでするのはちょっと……お父さんが見てる気がするから、やめときます」 「馬鹿。そんなわけないだろう」  運転席のほうに顔を寄せ、篠宮は微かにくちびるを開いてみせた。意味ありげに結城の顔を見つめてから、眼を伏せて静かに溜め息をつく。案の定、篠宮の仕掛けた罠に、結城は面白いほど簡単に引っかかった。

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