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恋人同士の一大イベント
「ちょっと篠宮さん、そんなに顔近づけて誘惑しないでよ……我慢できなくなる」
「君らしくないな。したいのなら、すればいい」
「うう……」
抵抗を諦めた様子で、結城が篠宮の肩を抱き寄せる。くちびるが合わさると、篠宮は自分から舌を差し出した。
「んっ、あ……ふ」
人前でこんな事をするなどとんでもないと考えている篠宮だが、今は周りに誰もいないと分かっているせいか、いつになく積極的だった。結城に肩を預けて寄り添いながら、もっと深くくちびるを重ねようとする。
「あっ、ん……」
お互いに貪り合う濃厚な口接けに、車内がしだいに暑くなってくる。結城が篠宮の上着を脱がせようとした、その瞬間だった。
車の外で、べちゃっと何かの落ちる音がした。
「ん?」
キスを中断し、篠宮たちは音のしたほうに眼を向けた。
フロントガラスに、緑色がかった白い汚れが付いている。おそらく鳥の糞だ。それまで恋人との熱いキスに溺れていた結城の顔が、たちまちのうちにこわばった。
「ほらやっぱり! お父さん、俺のこと気に入らないんですよ!」
「いや……たまたまだろう……」
自分の言葉に自信を失いかけながら、篠宮は小声で呟いた。些細な偶然も、二回続くと妙な気分になってくる。
「拭いてきます……」
泣きそうな顔を見せつつ、結城がウェットティッシュとビニール袋を手に取る。車を降りて表に回ろうとしてから、彼はふと思いついたように考えこんだ。
「そういえば、お母さん……さっきの話の中で、篠宮さんが二十六になったって言ってたじゃないですか。 篠宮さん、いつの間に二十六になったの?」
「今月の六日だ……たしか、水曜日だったか」
「えええっ! なんで言ってくれなかったの?」
結城が素っ頓狂な声を上げた。
「別に私の誕生日なんて、どうでもいいだろう」
「どうでも良くないよ! 誕生日っていったら、恋人同士の一大イベントでしょ?」
「そうなのか?」
篠宮が真顔で聞き返す。呆然とした顔で篠宮の眼を見つめてから、結城は急に声を立てて笑いだした。
「篠宮さんのそういう、ちょっとズレてるとこが……可愛い」
苦笑いと共に言い放ち、結城が車外へ出ていく。フロントガラスを拭く結城を視界の隅に捉えながら、篠宮は少々機嫌を損ねた口調で独り言を呟いた。
「ズレてる……」
当たっている気がするだけに、なにも言い返せない。自分は一生、仕事以外では結城に敵わないのではないか。そんな思いが胸に湧き起こり微妙に落ち込んでくる。
「お待たせー」
ビニール袋の口を縛りながら、結城が車内に戻ってきた。鳥の糞にキスを邪魔されたことなどすっかり忘れた様子で、楽しそうに口許を緩めている。
「まだ笑ってるのか」
「ううん。ちょっとね。考えたことがあって」
シートベルトを締めながら、結城は微笑と共に答えた。
「お母さん。篠宮さんが二十六歳になってるって、すぐに分かったでしょ。それって、篠宮さんがいつ生まれたか、誕生日がいつだったか、ちゃんと覚えてたってことだよね」
そう言われて、篠宮は母と交わした会話を思い出した。たしかに彼女は頭を悩ませる様子もなく、ごく自然に息子の年齢を口にしていた。
「だから。篠宮さんのお母さんは、離れてる間も自分の子供のこと、忘れずにいたんだなと思って。過去にはいろいろあったかもしれないけど、本当は篠宮さんのこと、ずっと気にかけてたんだね」
結城が前に向かって姿勢を正す。エンジンのかかる音が小気味よく耳に響いた。
「ね、篠宮さん。ケーキ買って帰ろ。誕生日のお祝いしたい」
「君が食べたいだけだろう……」
「そっか。篠宮さん、甘い物はちょっと苦手なんだよね。じゃあケーキのカロリーは俺が摂るから、篠宮さんは俺からカロリー吸い取ってよ。甘くないミルクなら好きでしょ?」
妖しく誘うように、結城が運転席から流し目をくれた。このぶんだと、今夜も帰さないつもりに違いない。
「そんなことばかり言ってると、また墓の前で花束を突っ返されるぞ」
「へへ。お父さんには許してもらえなかったけど、お母さんからはちゃんと承諾もらったもん。『正弓のこと、どうぞよろしくお願いします』って。お父さんにだって、いつか必ず認めさせてみせますよ」
上機嫌そのものといった表情で、結城が鼻歌を歌い始める。花びらを屋根に載せたアッシュグレーの車が、砂利道を楽々と乗り越えながら軽快に滑りだしていった。
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