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【春から夏へ】

「〽︎きっみっの〜その瞳の甘い罠に〜」  台所で洗い物をしながら、結城が小声で歌を口ずさんでいる。  窓から射し込む明るい光。さわやかな水色のカーテン。辺りに漂うコーヒーの残り香。いつもと変わらない、平和な土曜日の朝だ。  週末の夜はどちらかの家で過ごす。どちらが言い出したわけでもなく、いつのまにかそうなってからもう五か月ほどが経つ。  恋人になって間もない頃は、翌日の昼頃には自宅に帰っていた。しかし、最近では夜が明けても離れがたくて、そのままもう一日を過ごしてしまうことが多い。  自分と付き合う前、結城は休日をどう過ごしていたのだろうか。そんな疑問がふと頭をよぎる。結城は社交的な性格だ。友人らしい友人もいない上に、無趣味な自分とはわけが違う。  本を読んでいるふりをしつつ、篠宮は密かに結城の後ろ姿を盗み見た。こうして料理だ洗い物だとまめまめしく尽くしてくれるのは嬉しいが、それが彼の負担になっているのではないかと時々心配になる。 「よーし。終わり!」  きゅっと音を立てて蛇口を閉め、結城が篠宮のほうを振り返る。慌てて視線をそらし、篠宮はおもむろに話を切り出した。 「結城……この後、何か予定はあるか」  「え? いや、別に……篠宮さんと一緒にいる以外の予定はないですけど」  いきなり何を言い出すのかと、結城がやや:訝(いぶか)しげな表情を見せる。椅子にすわったまま、篠宮は上目遣いで彼の顔を見つめた。 「毎週毎週、君は当然のように私と過ごしているが……君は家族とも仲が良いし、友人だっているだろう。私と過ごすために、他の皆と会う時間を削っているのであれば、あまりにも申し訳ない」 「えー。別に削ってなんていないですよ。家族とはそんなに頻繁に会うわけじゃないし、ダチも、こっちにはあんまり居ないし。俺にとっていちばん大事なのは篠宮さんだもん。休みの日は、篠宮さんと一緒に過ごしたい」 「だが……私とは、会社で毎日顔を合わせているじゃないか」 「会社で会うのと恋人として逢うのはぜんぜん違いますよ。会社でチューして押し倒してエッチしていいんだったら、話は別だけど」  結城の明け透けな台詞を聞き、篠宮は赤面しながら眼を伏せた。そんなことがまかり通るようになったら、結城はたぶん一秒たりとも仕事なんてしないだろう。会議室か資料室か、深夜の営業部か。一瞬、ひと昔前にドラマなどで流行(はや)った、ヒロインが壁に押し付けられてキスされる場面を想像してしまった。 「実は……」  頭に浮かんだ妄想を振り払うため、篠宮は強いて口を開いた。 「いま使っている財布がだいぶくたびれてきたから、買いに行こうと思っていて……その……もし迷惑じゃなければ、一緒に来てくれないか」  まともに眼を合わせることもできず、おずおずと言葉を選びながら様子をうかがう。だが、そんな心配は杞憂だった。篠宮が話し終わったとたん、結城は満面の笑みを浮かべて答えた。 「もう、なに遠慮してんの? 迷惑なわけないでしょ? 行く行く! 世界の果てまでも一緒に行きますよ!」  篠宮の背中に手を回し、結城が嬉しそうに身体をすり寄せる。まるで、飼い主と散歩に行けると知った時のゴールデンレトリバーだ。 「世界の果てまでは買いに行かないぞ……」  篠宮は眉を寄せて呟いた。苦笑いしつつも、恋人が快く承諾してくれたことにほっと安堵する。巻きついた結城の腕をやんわりと振りほどき、篠宮は支度をするために立ち上がった。

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