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土曜の昼下がり

「いやー、デパートなんて久しぶりですよ。たまに行くと楽しいですね!」  隣を歩く結城が、にこにこと頰を緩めながら話しかけてきた。  小さくうなずいて同意を示してから、篠宮は自分たちを取り巻く賑やかな街並みに眼を向けた。大きな道の両脇には、百貨店や各地の特産品を扱う店が、それぞれ眼を引くような工夫をこらして並んでいる。  それなりに人の数は多いものの、ごった返すというほどでもない。気温は暑くもなく寒くもなく、土曜の昼下がりに買い物を楽しむにはぴったりの陽気だ。 「君に感謝しなければいけないな。おかげで、良い物が買えた」  篠宮は自分の手元に視線を向けた。左手に提げた紙袋の中には、先ほど購入したばかりの財布が入っているはずだ。結城が店頭で見つけて勧めてくれたのだが、久々に自分でも気に入る物が買えたと思う。 「お礼なんていいですって。篠宮さんと行けるなら、俺、どこだって楽しいもん」  隠す気もない開けっぴろげな好意と共に、結城がとびきりの笑顔を披露する。篠宮は直視できずに眼をそらした。下手なアイドルよりよほど整ったその顔を、こんな至近距離で見せられたのでは心臓に悪い。 「そういえばお腹すいたなー。ねえ篠宮さん。どっかその辺で、ごはん食べよっか? どこがいいかな」  篠宮の動揺をよそに、結城は健康な男子らしい言葉を発して辺りをきょろきょろと見回した。  結城は酒も飲むし、甘い物も脂っこい物も好きだ。その割にはまったく太る様子がない。おそらくあの栄養のほとんどが、下半身の一部に回っているに違いない。 「あ! ねえ篠宮さん。イタリアンの食べ放題だって! あれがいい! あれにしようよ!」  いきなり大声を出して、結城が少し先の店まで走り寄っていった。 「おい……!」  慌てて引き留めようとするが、間に合わない。見ただけでイタリアンレストランだと判る、華やかな外装の前に立つ結城を見て、篠宮は溜め息をついた。  店先に掲げられた大きなトリコロールの旗も相当に派手だが、それ以上に派手なのは、結城の長い脚とふわふわ跳ねる柔らかそうな髪だ。そのうえ整った顔立ちに甘い声とくれば、道行く女性が熱い視線を注ぐのも無理はない。  やや不機嫌な表情で、篠宮は歩いて結城のもとに向かった。場所柄からいって、タレント事務所のスカウトなどに遭うことはないだろうが、通行人からちらちら見られるのは居心地が悪い。 「結城。急に声をあげたり走り出したりするのは、目立つからやめ……」  はしゃぎ回る結城と眼を合わせ、冷静に諭そうと思ったその瞬間。 「あっ! ……ああっ!」  少し離れた場所から、絶叫のような金切り声が聞こえてきた。  篠宮は慌てて振り返った。街中で女性の叫び声が聞こえるなど、尋常なことではない。通り魔でも出たのだろうか。緊張と不安を胸に、篠宮は周りに眼を配った。  篠宮を庇うように、結城が一歩前へ足を踏み出す。悲鳴の主と思われる人物が、通りの向こうから走ってくるのが見えた。  ボブカットの髪に淡いブルーのシャツを着た女性だ。歳の頃は、三十を少し過ぎた頃というところだろうか。  急いではいるが、追いかけられているといった感じではない。また、彼女自身が刃物や危険物を持っている様子もない。それならもっと大騒ぎになっているはずだ。 「……バイトの時間に遅れそうなのかな」  とりあえず危険なことはないと判断したのか、結城が間の抜けた口調で呟いた。朝はいつも遅刻寸前の彼らしい考えだ。 「悲鳴をあげる意味が解らないぞ」 「あ、そっか……トイレに全財産忘れた事でも思い出した?」  女性に対して失礼な言葉を吐きつつ、結城は篠宮の顔を見た。そんな埒もないことを話す間にも、女性は篠宮たちのいる場所にどんどん近づいてくる。 「君の知り合いか?」  走ってくる彼女の眼が結城に向かっているような気がして、篠宮は思わずそう問いかけた。 「いやあ……違うと思いますけど」  結城が曖昧な返事と共に首を傾げる。  知り合いではないとすると……篠宮は眉を寄せて想像力を働かせた。先ほど考えた『スカウト』の四文字が再び脳裏をよぎる。 「え……」  結城が再び声を上げた時には、彼女は数メートル先まで近づいてきていた。もはや疑う事もできないほどに、その瞳がしっかりと自分たちを捉えている。二人のうちどちらかに用事があることは間違いない。 「はぁ、はぁ……良かった……追いついた」  篠宮たちの前まで来ると、その女性はやっとたどり着いたとでもいうように、肩にかけた鞄をどさりと脇に置いた。 「はあ……はあ……あのぉ……」  ぜいぜいと息を切らしながら、彼女が顔を上げる。結城は知り合いではないと言っていたが、篠宮のほうは、どこかでこの女性と会ったことがあるような気がしていた。  仕事柄、人の顔と名前は割と覚えているほうだ。どこで会ったのだろうか。素早く記憶の引き出しを探ってみたが、どうにも思い出せない。 「あっ、あの……袴で初詣に来てたお兄さんたちですよね?」  袴で初詣。彼女の口からその言葉を聞いて、篠宮は結城と二人で初詣に行った時のことを思い返した。 「あっ」  結城がはっと気がついたように眼を見開く。篠宮もほぼ同時に、以前この女性と顔を合わせたことを思い出した。 「雑誌のライターのお姉さん!」 「雑誌のライターのかたでは……?」  二人で声を合わせて同じ意味のことを口にすると、彼女は顔を上げて嬉しそうににっこりと微笑んだ。 「正解! 覚えててくれたのね」  そう言って汗びっしょりの額をハンカチで拭いながら、彼女は篠宮たちを見上げた。  呆気にとられて立ち尽くしたまま、篠宮は瞬きを繰り返した。なぜ自分たちを追っていたのかは解らないが、化粧が崩れることも厭わずこんなに汗をかくまで走ってくるなんて、よほど必死だったのだろう。 「ね。今、時間空いてるかしら。お願い、話だけでも聞いてほしいの。こんなに大勢の人の中で偶然会えるなんて、運命を感じるわ。ね、助けると思って!」  縋るような眼で代わる代わる二人を見つめながら、彼女が手を合わせる。篠宮は結城と顔を見合わせた。こんなに息せききって走ってきた上に『話だけでも』と懇願されてしまっては、無下に断るわけにもいかない。  篠宮は辺りを見渡した。道を歩く人が自分たちのほうを、何事なのかと疑いの眼で眺めている。 「えーと……とりあえず、入っていいですか? イタリアン食べ放題」  低い声で呟き、結城がトリコロールの旗を指差した。これ以上往来に立ち止まって、好奇の眼にさらされるのは避けたい。彼女の言葉を無視することができない以上、さっさと店に入ってしまったほうがいいという賢明な判断だろう。 「ええ、もちろんよ! 私もお腹すいてるの」  やっとのことで息が整ったのか、彼女は明るい声で大きくうなずいた。  篠宮としては、たまには気分を変えて中華かインド料理にでもしようかと思っていたのだが、イタリアンは元々好きなので別に異存はない。 「では……入りましょう。お話は中でうかがいます」 「ありがとう! 恩に着ます!」  砂漠の中で水でも恵んでもらったのか。そう思うほど切実な声で礼を言い、彼女は深々と頭を下げた。

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