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不機嫌は最高潮

「えー。別にいいんじゃないの?」  月曜日に篠宮が質問すると、天野係長は大した問題でもないといった口調で、実に気軽にそう答えた。 「副業……うーん、どうだったかしら。就業規則にも社内規程にも、たしか駄目っていう記載はなかったと思うのよねー」 「それは確認しました。ですが、いちおう上司には訊いておくべきなのかと思いまして」  自分の思うとおりにならなかったからといって、他人に八つ当たりするのは間違っている。係長の机の正面に立ちながら、篠宮は大人としての常識を自身の胸に言い聞かせた。だが、声に苦々しい響きが混じるのだけはどうしても抑えることができない。  今日の朝。篠宮はいつもより早く家を出て、タイムカードを押す前に会社のパソコンを立ち上げた。土曜日に約束したとおり、就業規則と社内規程を確認するためだ。  なんとも信じがたいことではあったが、篠宮たちの会社において、副業は許可されていた。『会社の品位を(おとし)めないもの』という但し書きがついていたものの、雑誌のモデルが品位を貶める仕事であるとは到底思えない。この記述によって、会社の規則を理由に話を断るという望みはほぼ断たれてしまった。 「いかがわしいバイトじゃなければ、別に良いと思うけど。まさか篠宮くんがそんな事するとも思えないから、そこは大丈夫よね。ちょっと待って。念のため部長たちに訊いてみるわ」  それだけ言うと、彼女は素早く眼の前にあるパソコンのキーを叩いた。この営業部ではすべての社員にパソコンやタブレットといった機器類が貸与されていて、簡単な打ち合わせならそれらを通して行うことができる。 「部長に次長に課長……全員、本業に支障が無いならいいんじゃないのって返事よ。どうしても気になるなら、総務に訊いてくれって。そんなことより……あ、結城くん! おはよう。ちょっとこっちに来てもらってもいい?」  おそらく、入り口から結城が入ってくる姿が見えたのだろう。天野係長が篠宮の身体越しに声をかけた。  モデルの件を断れるか断れないか、その瀬戸際の一大事を『そんなこと』で片付けられてしまい、篠宮はやや気分を害した。とはいえ、天野係長に責任があるわけでもない。社内恋愛は禁止なのに副業は許可されているという、自社における謎の規則に今さらながら首を傾げる。 「あ、はい、おはようございます!」  相変わらず機嫌の良さそうな表情を見せ、結城は早足で近づいてきた。返事の声は天野係長に向けているものの、その眼は篠宮だけしか見ていない。いつもの事ながら、好意を隠しもしない全開の笑顔に、篠宮はいたたまれない思いでそっと眼をそらした。 「おはようございます、篠宮さん。もしかして例の件、もう確認してくれたんですか? どうでした? やっぱダメだった?」 「後で話す」  係長に呼ばれたというのに、先に自分に話しかけてくる結城に苛立ち、篠宮は思いきり眉を寄せた。モデルの話を断る理由が存在せず、その怒りを自分にぶつけるしかなくなってしまった今、不機嫌は最高潮に達している。

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