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自分のことは棚に上げて
「君と……」
君と行くのなら、楽しく過ごせるかもしれない。喉元まで出かかったその言葉を、篠宮は慌てて飲みこんだ。酔ってもいないのに、そんな甘い台詞 を口にすることなどとても出来そうにない。
「そ、俺と二人で。どこに行きたい? いっそのこと世界一周にしようか。俺、もう二つ三つくらい、なんか言葉覚えようかな」
荒唐無稽と思われる結城の話を聞くうちに、篠宮はどこか胸騒ぎがするような、ひどく落ち着かない気持ちになった。
胸が弾む。今まさに、自分の心がそう表現すべき状態になっていると気づいて、篠宮は愕然とした。旅と聞いただけで、こんなに心が躍るのは初めてだった。
なぜ旅行が嫌いなのか。それは環境が変わることで、ふだん身を守っている鎧が剥がれ落ちてしまうからだ。
「君ならスペイン語あたりが似合いそうだな」
「あー。それ、よく言われるんだよねー。おまえはどうせラテン系だろって。篠宮さんはドイツ語かな……やばい。ドイツ語話してる篠宮さん見たら、俺、また惚れ直しちゃうよ」
埒もないことを話しながら、結城が幸せそうな笑みを浮かべる。
篠宮は今日ここへ来ることになった経緯を思い出した。面白そうなことと見れば自分から飛び込んでいき、進んで楽しもうとする結城の姿を見ていると、過剰な理性や常識が自らをがんじがらめに縛っていたことに気づく。
「大きな美術館を、一週間ぐらいかけて見て回ったり……異国情緒たっぷりの、古い宮殿なんかも見てみたいよね。南の海も外せないな。夕暮れのビーチで二人きりになったら、自然に愛も深まっちゃったりして……えへへ」
何を考えているのか、目尻を下げて笑う結城を見て篠宮は溜め息をついた。どうせ自分は彼の妄想の中で、全裸のまま砂の上に押し倒されているに違いない。
「馬鹿。世界の主要な都市を回るだけで、何か月かかると思ってるんだ。そんなに休みが取れるわけないだろう」
「あ。じゃあさ。世界一周しながら仕事しない? お、我ながらいいこと思いついた! 俺が社長になったら、篠宮さんを連れていろんな国に行くよ。マーケティングしたり人脈を作るのだって、立派な仕事でしょ?」
「公私混同だぞ……それに、そんなに四六時中いっしょにいたら、早く飽きがきて喧嘩別れするのがおちだ」
彼が自分に飽きる。その日が来るのはいつのことだろうかと思いながら、篠宮は眼を伏せた。結城は口を開くたびに綺麗だの可愛いだのと褒め言葉しか言わないが、自らにそれほどの魅力があるとはどうしても信じられない。
「そんな心配いらないよ。俺、篠宮さんを飽きさせないよう精いっぱい頑張るから。喧嘩することくらいは、ひょっとしたらあるかもしれないけど……もしそうなったって、俺、絶対にすぐ謝るもん。許してもらえるまで、土下座して謝るよ」
結城が口をとがらせて言い張る。微妙に食い違う会話をもどかしく感じながら、篠宮は苦笑いを浮かべた。
なぜ結城は、恋人に愛想を尽かされる可能性ばかりを気にしているのだろうか。自分のほうが先に飽きるかもしれないということは、まったくもって視野に入れていない。
そこまで考えて、篠宮は『自分のことは棚に上げて』という言葉を思い出した。自分が飽きることなど微塵も考えず、相手に飽きられることばかり心配している。それは、自分も同じではないか。
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