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存在する唯一の理由
「君が謝ることばかりとは限らないだろう。喧嘩なら、私のほうに非があるかもしれない」
「篠宮さんに原因があるわけないでしょ。いつも篠宮さんに怒られるようなことしてるのは、俺のほうじゃん。もし篠宮さんが浮気したとしても、俺が怒るのは篠宮さんじゃなく、自分自身に対してだよ。だって浮気なんてされるのは、俺の愛情が足りないせいでしょ? 自分を責めることはあっても、篠宮さんのせいにするなんて有り得ないよ」
結城の愛情をもってしても足りないなんて、そんな貪欲な人間がこの世にいるものか。そう思って篠宮は苦笑した。浮気はされるほうに原因があるだなんて、ずいぶんと過激な意見だ。世間の恋人や夫婦が聞いたら激怒するに違いない。
「それを言うなら……私が至らないせいで、君が浮気する可能性だってあるじゃないか」
「俺が浮気なんてするわけないでしょ。篠宮さんを愛して大切に護ることが、俺の存在する唯一の理由なんだから。至らないところなんて、篠宮さんにはひとつもないよ。可愛いし美人だし、カッコいいし、文句のつけようがないもん。これで不満だなんて言ったらバチが当たるよ」
自分のほうが先に飽きるなんて、あるはずがない。こんなに性格が違うのに、なぜかその点に関してだけは同じことを考えているのだ。そう気づいて篠宮は不思議な気持ちになった。
「……あ」
何かに気づいたのか微かに声を上げ、結城が前方のやや左に眼を向けた。
「ねえ、吉沢さんの言ってたロマンチックな湖って、この辺りかな」
自分の言葉を確かめるように、結城が徐々に車のスピードを緩めていく。篠宮は再び窓に眼を向けた。
木立ちの間から、微かにきらめく湖が見える。周りを取り囲む茂みは墨を流したように黒く、湖面に映り込んだ月だけが静かに揺らめいていた。彼女が言っていたとおり、たしかに恋人同士が愛を語り合うに相応しい幻想的な雰囲気だ。
「他に車も通らないみたいだし。ちょっと休憩しようか」
車を路肩に停めてエンジンを切ると、結城はシートに深くもたれかかって溜め息をついた。
「……疲れたのなら、運転を替わるぞ」
結城の運転は心地よく、ついつい任せきりにしてしまう。帰りは自分が運転するべきかと思い、篠宮は隣に声をかけた。
「疲れたわけじゃないよ。思い出してたんだ。タキシード姿の篠宮さん、本当に綺麗だったなって。変な意地張らないで、写真撮ってもらえば良かったかなって後悔してるとこ」
両手を頭の後ろで組み、結城はさらに背を反らした。眉間に軽くしわを寄せ、眼元にはめずらしく迷いの色がある。撮影を断 ったことを本当に悔やんでいるようだ。
「よりによって君が、あんなことを言い出すなんて意外だった。君なら大きなパネルにして、大喜びで部屋に飾るかと思っていたのに」
あの四阿 のある風景を思い起こしながら、篠宮は感慨深く呟いた。鮮やかな緑の生け垣に薄紅色の薔薇、そして白いライラックの花。結城の柔らかな髪と漆黒の衣装は、夕刻前の暖かな光にとてもよく映えていた。プロのカメラマンにとっては、格好の被写体だっただろう。
「篠宮さんは撮りたかったの?」
「パネルは勘弁してもらいたいが……彼女があそこまでお膳立てしてくれたのだから、一枚くらい撮ってもらえば良かったと思っている。せっかくの好意を無にすることになるだろう」
「……篠宮さんは優しいね。周りの人の気持ちもちゃんと思い遣ってる。やっぱ俺、駄目だな。自分のことしか考えられない」
結城が瞳を伏せた。何か思うところがあるのか、うつむいたまま自身の膝の辺りを見つめている。
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