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【ビジネス・トリップ】

 昼食を終えて営業部に戻ると、篠宮は頭の中で午後の予定を確認しながら席についた。  パソコンのロックを解除して、書きかけだったメールの続きを打ち始める。背後から、突き刺すような視線を感じたのはその時だった。 「あの……篠宮くん」  聞き慣れた女性の声に呼ばれ、キーを打つ手を止めて振り向く。そこには思ったとおり、篠宮の直属の上司である天野係長が立っていた。 「はい」  返事をしながら、篠宮は内心で首を傾げた。どことなく暗い、なにか心配ごとでもありそうな表情だ。そういえば、声にもいつもの張りがなかったように思う。常に明るくはきはきとして、聡明なイメージの彼女にしては珍しい。 「結城くんはどこ?」  妙にちらちらと周りを気にした様子で、彼女は口早に尋ねた。 「結城くんなら、交通費の払い戻しを受けに総務に行っていますが」 「どのくらいで戻って来るかしら?」 「すぐに戻ると思います。用意はできていて、受け取るだけだと言っていましたから」  結城になにか用事があるのか。そう思った篠宮は、彼はすぐに戻るという点を強調して伝えた。 「そう……」  それほど時間はかからないと聞いて、係長がなぜか残念そうな顔をする。  つまり。結城はしばらく戻ってこないほうが、彼女にとっては都合が良いということだ。二秒ほど思案してから、篠宮はその事にようやく気がついた。  考えてみれば、彼女の今の態度はどこか変だ。いつもの天野係長なら、いきなり背後に立って自分の質問だけを投げつけるような不躾な真似はしない。  結城に聞かれたくない秘密の話がある。そのことが、いつもの彼女らしくない奇妙な振る舞いとなって表に現れているのだ。最初に声をかけられた時点でそう気づかなかったあたり、自分はやはり人の機微に疎いのではないかと篠宮は軽く自己嫌悪に陥った。 「困ったな……どうしたらいいのかしら」  眉を寄せ、あごに手を当てて、彼女は悩ましそうに身をよじった。愛の告白でも始めそうな仕草だが、そんな話ではないことは分かりきっている。  なんともいえず嫌な予感がして、篠宮は声をひそめた。 「結城が何かしましたか」  彼が男の上司に想いを寄せているというのは、一部では有名な話だ。もしかしたらいつもの軽口の延長で、すでに交際していることをどこかで暴露したのかもしれない。そのくらいの事は勢いでやりかねない男だ。 「いやあの……そういうあれじゃないのよ。れっきとした、仕事の話」  いつになく歯切れの悪い係長の話を聞いて、篠宮は余計に混乱した。仕事の話で、なおかつ結城に聞かれてはまずい事とはなんなのだろうか。皆目見当がつかない。

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