159 / 396
空を覆うほどの暗雲
篠宮は視線を動かした。結城が来ると、周りがぱっと華やかになるのですぐに分かる。
「そうねえ篠宮くん。ここにもう一文入れたほうが、後の商談がスムーズに進むと思うわ。こんな感じで」
唐突に脈絡のない話を始め、彼女は篠宮のパソコンのほうへ強引に手を伸ばした。ホームポジションに迷わず指を置いたかと思うと、ものすごい勢いでキーを叩き、書きかけだったメールの下に次の文を記す。篠宮はただ呆然とそれを見ていることしかできなかった。
『後でメモを渡します。見たら内容を覚えて、すぐシュレッダーにかけて』
篠宮が読んだか読まないかという一瞬の間に、その文は跡形もなく削除された。
とてつもなく嫌な予感に、篠宮は背すじが凍りつくような気持ちになった。どんな内容の話か想像もつかないが、即座にシュレッダーにかけてくれとは穏やかでない。
「あ、佐々木さん。新婚旅行のおみやげありがとうございました。マドレーヌ美味しかったです」
篠宮の気も知らず、結城はたまたま入り口の近くに立っていた佐々木に愛想よく声をかけた。
「いやいや、お礼なんていいよ。こっちこそ、式に来てくれてありがとな! おまえが来てくれたおかげで、二次会も盛り上がったよ」
「そうですか? あはは。噂には聞いてたけど、花嫁さん本当に綺麗でしたねー。まあ、篠宮さんには敵わないけど」
「はいはい。おまえ本当に、篠宮主任以外眼中にないんだなー。おまえの主任大好きオーラが強烈すぎて、彼女の友達もみんなドン引きしてたぞ。ま、それが面白かったんだけど」
愉快そうな笑い声と共に、結城と佐々木が下らない会話を繰り広げている。結城が席に向かうまでもう数秒あると見て取ったのか、天野係長は注意深く隙をうかがいながら再びキーを打ち始めた。
『この件のフォローは任せます。ごめんなさい私には無理。よろしく』
眼の前に並んだ文字を、篠宮はぽかんと口を開けたまま見つめた。天野係長とも思えない、支離滅裂な文章だ。だいたい『この件』とはなんなのだ。何も知らされないうちから謝られるほど恐ろしいことはない。
「あ、結城くん! 昨日の会議での発表、すごく良かったって部長が褒めてたわよ。やっぱり篠宮くんに教育係を任せて正解だったって、ご満悦だったわ。ふふ」
入力した文を矢のような速さで再び消し去り、係長は何事もなかったかのように晴れやかな顔で結城のほうを見た。
「えへへー、そりゃもう! 頭いいし優しいし、篠宮さんは最高の上司ですよ。そんな完璧な篠宮さんに恥をかかせるわけにはいきませんからね。俺も、やるときはやんないと! へへ」
結城が嬉しそうに眼を細める。自分の頑張りを認められるより、恋人の仕事ぶりを褒められるほうが、彼にとっては喜ばしいことらしい。
「素敵な上司を持って幸せね、結城くん。これからもその調子でよろしくね」
「えへへー、もちろんですよ」
結城が気を良くするような一言をさりげなく付け加える、天野係長のそのあざとさに、篠宮は半分呆れながら感心した。
人間、機嫌が良くなると注意力散漫になる。そのおかげと言うべきだろうか。いつも目敏 い結城も、彼女が篠宮のパソコンに謎の文章を打ち込んでいたことにはまったく気付かなかった。
「今日もすっきりしない天気ですね。あー、早く梅雨明けないかな。夏になったらやりたいこと、いっぱいあるんだけど」
海に行きたいし、高原もいいなあ……そんな事を呟きながら、結城が口許に笑みを浮かべている。おそらく彼の頭の中には、すでに夏の青空が広がっているのだろう。
天野係長の言っていた『仕事の話』とはいったいなんなのか。それを考えると気が重い。楽しげに夏の計画を立てる結城とは対照的に、篠宮の行く手には、空を覆うほどの暗雲が立ち込めていた。
ともだちにシェアしよう!