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由々しき問題

 天野係長の『後でメモを渡します』という言葉は、いつ実行されるのか。そう思って戦々恐々とする篠宮に、一冊の本が手渡されたのはそれから二時間後のことだった。 「篠宮くん。これ、このまえ借りたいって言ってた本。読み終わったら返してね」  渡されたハードカバーの表面に、篠宮は軽く眼を走らせた。どこかで見たようなタイトルのビジネス書だ。  帯には『五年後、十年後を見据えて』とある。そういえば先日結城とテレビを見ていた時に、ベストセラーの紹介でこの本が上位に入っていたような気がした。篠宮個人としては大して興味もないが、得意先の中には、こういった自己啓発系の本が好きな人もいる。話を合わせるために、読んでおいて損はない。  とはいえ、この本を借りて読むのにはいくつかの問題がある。まず一番の問題は、本を借りたいなんて話はしていなかったということだ。シンプルながら由々しき問題である。 「えー。なになにこの本……あー、この前テレビで紹介されてたよね」  それだけ言うと興味を失い、結城は席について午後の仕事に取りかかり始めた。  たしかに、五年後十年後を本能で嗅ぎ分ける結城には必要ない本だろう。あえてこの本を渡した天野係長の手腕に、篠宮は改めて感服した。結城が見ることは絶対にないと知った上で、数ある中からこの本を選んだに違いない。  ぱらぱらとページをめくり、篠宮は間に挟まれたメモをそっと抜き取った。 「ちょっと手洗いに行ってくる」 「あ。はーい」  行きたくもない手洗いに行くことを告げ、篠宮は手のひらのメモをズボンのポケットにねじ込んだ。  結城は何も気づかず、パソコンの画面に眼を向けている。こと仕事に関するかぎり、彼は篠宮を信頼しきっていて、行動を不審に思うことなどまず有り得ない。 「ふ……」  トイレの個室に入ると、篠宮は大きく溜め息をついた。  どうしてこんなスパイみたいな事をしなければならないのか。結城と知り合ってからというものの、人生のすべてがスリルとサスペンスに満ちているような気がする。まるで、物語の主人公にでもなったみたいだ。  ……よし。胸の中で、励ますように自分に声をかける。心を落ち着かせ、篠宮は手書きの文字が並んだメモ用紙に眼を向けた。  走り書きされた天野係長のメッセージを読み終わると、篠宮は溜め息をつきながら紙切れをポケットに戻した。  うつむきがちになる顔を強いて上げながら、営業部に戻る。ひたすらに気が重い。おそらく今の自分は、あの時の係長と同じ表情をしているだろう。 「篠宮さん、なんか顔色悪くないですか? お腹でも痛いの?」  席に戻ると、結城が心配そうに眉を寄せながら声をかけてきた。 「いや……そんなことはない」  ある意味胃が痛いような気もしたが、篠宮は結城を安心させるため首を横に振った。  いちど席につき、篠宮は静かに深呼吸した。結城が自分の仕事に集中しているのを確かめてから、手を伸ばして机のいちばん下の引き出しを開ける。ファイルやバインダーが整然と並んだその奥には、大掃除の時に片付け損ねた古い資料が入っていた。  注意深く取り出して一部ずつめくり、それがすべて不要な書類だということを確認する。紙の束を揃えて立ち上がると、篠宮はこっそりメモを取り出して間に挟み、まとめてシュレッダーにかけた。  極秘文書の始末を無事に終え、何食わぬ顔で席に戻る。いつになく真面目な顔で仕事に取り組んでいる結城をしばし眺め、篠宮は横からそっと声をかけた。 「結城。今日……飲みに行かないか」 「え? いいですけど……どうしたんですか急に?」  結城が驚いた顔で問いかけてくる。意識してまばたきを抑え、篠宮はポーカーフェイスを装ってみせた。万が一にも不信感を抱かせるようなことがあってはならない。さりげなく。あくまでも、さりげなくだ。 「銀座の裏通りに、ウイスキーの良いのを揃えている店があるんだ。先日テレビで紹介されているのを見て、久しぶりに行ってみようかと思って……考えてみれば今まで一度も、君と差し向かいで飲みに行ったことがなかっただろう。たまにはどうだ? テレビの影響で客が増えたかもしれないが、平日なら多少空いていると思う」  篠宮は微かに笑みを浮かべてみせた。わざとらしくならないよう細心の注意を払いながら、軽い流し目で誘いかける。結城の表情がぱっと明るくなった。 「行きます行きます! やった、篠宮さんからデートのお誘い!」  宝くじでも当たったのかと思うような歓声を上げ、結城が眼を輝かせる。何かを疑うような素振りは見られない。とりあえず第一段階は成功したと思って、篠宮は胸を撫で下ろした。 「えへへー、嬉しい」  この先に待つ試練も知らず、結城は跳び上がって喜んでいる。いつもなら仕事はきちんとしろと釘を刺すところだが、今日はそれを言う気にもならなかった。

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