162 / 396
いくらなんでも心配しすぎ
「馬鹿、大きな声を出すな」
篠宮は慌てて周囲を見回した。流れる音楽が話し声を打ち消してくれるとはいえ、それにも限度というものがある。幸いなことにこのバーは品の良い客が多く、トラブルではないと解るとすぐに素知らぬ顔をしてくれた。
「篠宮さん。その日風邪ひいてください。駄目。絶対ダメ、無理」
結城が半泣きになりながら懇願してきた。
「馬鹿なことを言うな。仕事なんだ。仕方ないだろう」
「だってだって! 駄目ですって。ベッドのある部屋で、他の男と二人っきりになるなんて」
「変な言いかたをするな」
篠宮は不機嫌な声で呟いた。出張で営業仲間とツインの部屋に泊まるなどよくあることだったのに、結城にそう言われると妙に意識してしまう。
「そんなこと言ったって……隣で篠宮さんが寝てるのに、平静でいられる奴なんてこの世に存在しませんよ。篠宮さんのあの可愛い寝顔見たら、誰だって夜這いしたくなっちゃうに決まってます」
「馬鹿。誰でも彼でも君と一緒にするな。私はどう見ても男だろう。牧村係長補佐は、愛妻家で有名なんだぞ」
「男とか女とか関係ありませんよ! 俺だって篠宮さんに逢うまで、男になんか興味なかったもん。奥さんが居ようが無類の女好きだろうが、篠宮さん見たら絶対にその気になりますって! 篠宮さん、こんなに色っぽくて可愛いんだから」
可愛い可愛いと恥ずかしげもなく連呼する結城を見て、篠宮は呆れ返った。いったい自分は、彼の眼にどう映っているのか。
「結城。君が私を大事に思ってくれるのは嬉しいが、いくらなんでも心配しすぎだ。私はそこまで魅力的じゃない」
「それこそ篠宮さんが自覚なさすぎですよ! 同じ部屋ってことは、着替えもなにもかも一緒なんですよ? 一緒にごはん食べて、テレビでニュース見て、お風呂にも入ったりして……篠宮さんの玉の肌を目 の当たりにしたら、我慢できる人なんて居ませんってば。賭けてもいいです」
「馬鹿。どうして私が牧村係長補佐と一緒に風呂に入るんだ」
篠宮は仏頂面のまま言い返した。牧村係長補佐は、篠宮が入社した時に教育係を務めてくれた人物だ。そのせいか今でもなにかと面倒を見てくれることはあるが、それはあくまでも仕事仲間としての義理である。
彼が自分に性的な欲望を抱くなんて想像もできない。そんな事が起こり得るだなんて、考えるだけでも先輩に対する侮辱だ。
「……待って。いま最悪な想像が頭に浮かんだ」
さらに深刻な顔をして、結城は篠宮の言葉を手のひらでさえぎった。
「観光地に近いホテルだったら、きっと大浴場とかありますよね? 篠宮さんがそんなとこに行ったら、もう完全に、狼の群れに放りこまれたウサギちゃんじゃないですか。ああっ……俺の大事な大事な愛する篠宮さんが、大浴場で、どこの誰とも知らない男たちに次から次へと輪姦 されて……!」
「いい加減にしないと本当に怒るぞ」
篠宮は眉を吊り上げた。物静かで品のある、老舗のバーで口にする話ではない。場違いにも程がある。
「……落ち着いてくれ。部屋の件に関しては、天野係長も尽力してくれたんだ。ツインのその一部屋しか空いていなかったんだから仕方ないだろう。もともと観光地のホテルでは、シングルの部屋は極端に少ないんだ。そのくらい、君だって解っているはずじゃないか」
「でも……」
結城が口の中でもごもごと文句を呟いている。まだ納得がいかないらしい。
ともだちにシェアしよう!