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特別サービス

「あの。俺、どっか別のホテルの部屋予約します。探せばあるはず」 「馬鹿なことを言わないでくれ。ツインルームを取ってあるのに、私が別のホテルに泊まるなんて不自然すぎるだろう。考えてもみろ。離れた場所にいたのでは、細かな打ち合わせもできなくて仕事に支障が出る」  この短時間に何回馬鹿と言っただろうかと思い返しながら、篠宮は呆れ顔で呟いた。 「それは……そうですけど」 「頼む、私を信じてくれ。君以外の人とそんな事になるなんて、絶対に有り得ない。絶対にだ」  真っ直ぐに結城を見つめ、篠宮はカウンターに置かれた彼の指先にほんの少しだけ触れた。  アルコールのせいで、自分の頰はほのかに紅くなっているはずだ。眼も潤んでいるかもしれない。濡れたくちびるを開いて、愛しているのは君だけだと無言で訴えかければ、いかに嫉妬深い結城といえどもなんとか丸め込むことができるだろう。  篠宮は自分の職務を忠実に実行した。他人のいる場所でこんな媚態を見せるなど耐えがたいが、やむを得ない。特別サービスだ。 「うう……」  篠宮の血のにじむような努力の甲斐あってか、結城はなんとも言えぬ呻き声を上げつつも、最後には諦めて承諾した。 「じゃあ……帰ってきたら、俺の言うこと、なんでも聞いてもらえます?」 「仕方ないな……なんでもとは言わないが、私にできることなら」  ある程度予想していた結城の言葉を聞き、篠宮は早々に予防線を張った。そうでもしないことには、なにを要求されるか判らない。 「えっと、まず……俺のこと愛してるって言ってください。素面(しらふ)で、眼を見て、心を込めて言ってください」 「……分かった。出張から帰ってきたらな」  篠宮は重々しくうなずいた。時にはこちらから素直に愛情を示すのも、結城にとって必要なことだろう。慎み深く隠すだけが美徳ではない。そう教えてくれたのは、他ならぬ彼だ。 「それから。俺、エッチの時にしてみたいことがあるんですよ。それもさせてください」 「なっ……裸エプロンは嫌だからな」 「違いますって」  微かに笑みを浮かべると、結城は篠宮に顔を近づけ、そっと耳許に囁きかけた。 「う……まあ、そのくらいなら」  篠宮は目を逸らしながら(うつむ)いた。恥ずかしいことには変わりないが、裸エプロンに較べたら数億倍ましだ。 「あと結婚して?」 「ついでみたいに言うな!」  結婚という一言に動揺して、ついつい大声をあげてしまう。周りの客の眼が、一斉に篠宮たちのほうに向いた。 「篠宮さんのほうが大声出してるじゃん」  呆れたような声で結城が呟く。彼が振り向いて愛想笑いを浮かべ、軽く頭を下げると、客たちはすぐに注目を解いた。  他の客の眼に、自分たちはどう映っているのだろうか。不意にそんな考えが頭をよぎる。  上司と部下か。仲の良い友人か。  それとも……やはり。すべてを許し合った、仲睦まじい恋人同士に見えるだろうか。そう思って、篠宮はアルコールで染まった頰をさらに紅くした。

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