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恋人以外の男

 牧村係長補佐と二人でプレゼン会場の準備を終え、ホテルに着いたのは夜の七時のことだった。  到着するやいなや、夕食は二十時までだと()かされ、大慌てでビュッフェ形式の食事を胃の中に詰め込む。疲れているせいか大して食欲もないが、ここでしっかり食事をとっておかないと、寝る前に空腹で苦しむことになる。  まったくもって(せわ)しない話だ。しかし、急な出張ともなればこの程度のことは珍しくもない。  食事を終えると、篠宮は資料の入ったスーツケースを引きながら、先輩の後について廊下を歩いていった。  番号のついた扉を抜けて部屋に入ったとたん、篠宮の口からほっと溜め息が洩れた。朝から遅刻したり新幹線の切符を忘れたり、発注間違いをしでかすような奴はここには居ない。すべてが(とどこお)りなく進みすぎて、かえって不安になるほどだ。 「篠宮くん、明日の朝食のチケットどうしようか? 俺が待っててもいい?」  とりあえずといった様子でクローゼットの横に荷物を置き、牧村係長補佐は篠宮に向かって話しかけた。 「ああ……そうですね。預かっていていただけますか」  ベッドの脇に立ち、篠宮は部屋を見渡した。やたらと細長い一室に、冷蔵庫やベッド、クローゼットが一直線に並んでいる。風呂とトイレは、おそらく玄関を入ってすぐ横にある扉の向こうだろう。  奥の窓際には椅子とテーブルが置いてあり、景色を見ながらお茶や軽食を楽しめるようになっている。とはいえ、所詮は最後まで余っていた部屋だ。取り立てて景観が良いわけでもない。それでなくても、会社の出張で泊まる部屋などたかが知れている。  部屋の検分が終わると、篠宮は静かに溜め息をついた。とうとうここまで来てしまった。結城に言わせると『恋人以外の男と二人きりになる部屋』に、ついにチェックインしてしまったのだ。  結城が心配しているようなことは起こるはずもないが、あんな風に言われると意識せざるを得ない。  手持ちぶさたなまま、篠宮は時計に眼を向けた。時刻は二十時半を少し過ぎたところだ。 「あー。なんだかんだ言って疲れたよ。でも今日のうちに準備万端整えといたから、明日は少し楽ができそうだね。プレゼンは篠宮くんに任せて、俺は高みの見物といこうかな。はは」  ベッドに腰を下ろすと、牧村係長補佐は肩の凝りをほぐすように、背をそらして伸びをした。右手を上げて無造作にネクタイを緩め、空いた手で携帯電話を操作し始める。 「あー、アキナ? いま話して大丈夫? ……うん。メシ食って、ちょっと前に部屋に着いたとこ」  おそらく家族に電話しているのだろう。楽しそうに話しだす彼の声を、篠宮は聞くともなく聞き流した。  プレゼンは任せるなどと言われてしまったが、別に慌てる必要もない。部下が失敗して落ち込むことのないよう、何かあった時はさりげなく手助けしてくれる。篠宮の教育係を務めた彼は、その点は信頼に足る人物だ。 「エリは? えっ、もう寝ちゃったの? ……へえ。もう保育園のプール始まってるんだ? そりゃ、疲れて寝ちゃうのもしょうがないか。そうそう、アキナはどうなの? ちょっと心配してたんだよ。朝起きた時、少し熱っぽいって言ってたからさ。あ……そう? それならいいけど、無理はしないでよ」  篠宮が近くにいるのもかまわず、彼は幸せそうに相好を崩して話し続けた。聞きしに勝る愛妻家ぶりだ。  ただ黙って座っているのも、聞き耳を立てているようで気まずい。そう思った篠宮は、荷物の中からノートパソコンを取り出し窓際の席に置いた。

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