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理想の家庭
どうせ時間が余っているなら、後日に提出するレポートの概要を、形だけでも整えておきたい。椅子に座って電源を入れ、篠宮は今回の出張の資料をまとめ始めた。
手慣れた動作でキーを打つ篠宮の頭に、ふとひとつの疑問が浮かんだ。牧村係長補佐が結婚したのは、自分が入社する少し前だったと聞いている。ということは、もう丸三年以上は経っているわけだ。
それだけの間、ほぼ毎日顔を合わせていながら、いまだに新婚のような関係を保っていられるのはなぜなのだろうか。出張先で疲れているにも関わらず、わざわざ妻に電話をしてお互いの様子を確かめ合うなど、篠宮の育った家庭とは雲泥の差だ。
「はは、そっかそっか……うん。俺も今から風呂入ってくる。じゃあね」
結婚四年目とはとても思えない、甘い会話でつづられた電話が終わると、篠宮は遠慮がちに声をかけた。
「あの……牧村係長補佐」
「ん? ああ、ごめんごめん。篠宮くんがいるの忘れて、つい話し込んじゃったよ」
ひたいに手を当てて詫びながら、彼が軽く頭を下げる。篠宮は真面目くさった顔で問いかけた。
「いえ、その……結婚って、そんなに良いものでしょうか」
「えー。それ俺に訊く?」
何を当たり前のことをと言わんばかりに、彼は破顔した。
「そりゃもちろん、良いもんだよ。まあうちはまだ子供が小さくて、奥さんが時短で働いてるってのもあるけどさ。家に帰ったときに、誰かが待っててくれるってのは、やっぱ嬉しいよね」
俺の部屋で帰りを待ってて。以前有給休暇を取った時に、結城がそう言っていたことを篠宮は思い出した。
たしかに、誰もいない部屋に一人で帰るのは味気ないものだ。それまでそんな思いなど感じたこともなかったのに、結城と付き合うようになってから、家に一人でいることの寂しさが身にしみる。
「ですが……お子さんが大きくなったら、奥様も本格的にお仕事を再開されるのでしょう。家で帰りを待つというわけにもいかなくなると思いますが」
「その時はその時だよ。たしかに家で待っててもらうことはできなくなるかもしれないけど、帰りに待ち合わせて食事したり買い物したり、そのぶん別の楽しみが増えるでしょ? 子供ができたり仕事が忙しくなったり、時が経てば生活スタイルが変わっていくのは当然だよ。不満を抱え込むんじゃなくて、一緒に話し合って、補い合っていかないとね。夫婦ってそういうものじゃない?」
そう言って彼が微笑む。先輩とはいえまだ二十代である彼の、成熟した物の考えかたに篠宮は感銘を受けた。結婚して年数が経っても、お互いに思いやりの気持ちを持って睦まじく暮らしていく。きっと世間の大多数の人が、こう在りたいと願う理想の家庭だ。
こういう家庭に生まれていたら、自分はもっと素直な、明るい性格の人間になっていただろうか。そこまで考えて、篠宮はその思いを頭の中から追い払った。もし自分が幸福な家庭で育ったなら、きっと結城と結ばれることもなかっただろう。
「なに篠宮くん。結婚考えてるの?」
意味ありげににやにやしながら、牧村が尋ねる。篠宮は首を横に振った。
「いえ、そういうわけでは……まだ二十六ですし」
「俺だって二十六で結婚したよ? 佐々木くんなんか、まだ二十四じゃない。いいよー、結婚」
わざとおどけた声を出して、彼は篠宮を焚きつけた。たしかに自らがこれだけ幸せな結婚をしていれば、人に勧めるのも当然だろう。
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