166 / 396
世を儚んで
「これだと思う人に巡り逢ったなら、早いとこ捕まえなきゃ逃げられちゃうよ? うちの奥さんなんか、もう可愛いし料理は上手いし気は利くし、それに……おっと、これ以上言うのはちょっとセクハラかな」
途中まで言いかけてから、牧村が慌てて誤魔化し笑いをする。以前の篠宮なら、その意味するところなど解らなかったに違いない。だが結城と出逢って、夜の営みというものをさんざん教え込まれた今では、解りすぎるほど理解できた。
「ははは。まあ篠宮くんの場合は、もうちょっと身辺を整理してからのほうがいいかもしれないね。篠宮くんが結婚するなんて言ったら、きっと結城くん、世を儚んで身投げしちゃうよ」
下世話な方向に流れていきそうな話を、牧村は結城を引き合いに出すことで手短にまとめた。
「さ。明日もあることだし、そろそろ風呂に入ろうかな。きのう調べたんだけどさ、ここのホテル、大浴場の外側に露天風呂も隣接してるんだって。せっかくだから行こうよ」
傍らのスーツケースから大きめの巾着袋を出し、彼は篠宮に眼を向けて笑顔で誘いかけた。
「あ……」
……大浴場。その言葉を聞いて、バーのカウンターで結城が言っていた、実に馬鹿馬鹿しいあの話が篠宮の胸に甦った。
椅子に腰かけたまま、篠宮は自分の膝の辺りを見下ろした。この身体に欲情する男など結城以外にいないと思うが、いちど頭に浮かんでしまった考えは簡単には消えない。
「いえ、あの……私は、もう少し経ってから行きます。今日の資料を、今のうちに整理しておきたいと思いまして。なんなら内風呂で済ませても良いですし」
「えー、せっかく広い風呂に入れるチャンスなのに。資料のまとめなんて、そんなの来週でいいんじゃないの? 早く行かないと閉まっちゃうよ」
「いえ、でも……」
視線を泳がせ、篠宮はあくまで固辞し続けた。こんな思いを抱えたまま先輩と二人で露天風呂などに行っても、変に身構えてしまい、疲れを取るどころでなくなるのは眼に見えている。
「ほんと真面目なんだなあ。なんか篠宮くんって、可愛いよね。結城くんがあんなに好き好き言ってる気持ちが、ちょっと解るような気がしてきたな」
「えっ……」
可愛いと言われて篠宮が言葉に詰まると、牧村は声を上げて愉快そうに笑った。深い意味はなく、単にからかわれているだけらしい。
「じゃ、俺は下の風呂に行ってくるよ。資料の整理もいいけど、もう勤務時間外なんだから、軽く頭の中でまとめるくらいにしておいてよね。篠宮くんが頑張りすぎると、他の人の仕事が無くなって俺もクビになっちゃうからさ」
そう言って笑い、牧村が風呂場セットらしき物を手に立ち上がる。途中まで歩きかけ、彼は急に思い出したように言葉を続けた。
「あ、そうそう。一階のゲーセンの横に、ビリヤード台がいくつかあったんだよ。ホテルの人に聞いたら、空いてれば自由に使っていいって言われてさ。篠宮くん、ビリヤードやったことある?」
「簡単なルールは知っていますが……実際に触ったことはありません」
「そうなんだ? 篠宮くん、ビリヤード似合いそうだけどな。背が高くて手足も長いから、勝負するには有利だと思うよ。俺、学生時代にけっこうハマってたんだよね。風呂から上がったら、久しぶりに練習してみようかと思って。ちょっと遅くなると思うけど、先に寝てていいから。明日には支障が出ないように帰ってくるから、安心してよ」
「……分かりました」
袋に入った洗面道具を背負うようにして、牧村が鼻歌まじりで扉に向かっていく。男と男の裸の付き合いをどうにか免 れたことに安堵しながら、篠宮はその後ろ姿を見送った。
ともだちにシェアしよう!