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声を聞きたい
牧村が扉の向こうに消えると、篠宮は間をもたせるために開いていたパソコンをそっと閉じた。
ここに着いてからの先輩の行動を、頭の隅で思い返す。部屋に着いて腰かけたとたん、彼は息つく間もなく妻に電話していた。愛妻家だということはかねがね聞いていたが、まさかここまでとは思っていなかった。
仲の良い夫婦なら、妻を安心させるため、無事に着いたことを知らせるのが夫の義務かもしれない。あるいは単に、声を聞きたいという思いがあったのだろうか。
声を聞きたい。その言葉が頭をよぎった瞬間、篠宮の胸に結城の顔が浮かんだ。
時刻はもう夜の九時だ。多少の残業はあったかもしれないが、今頃は結城も仕事を終え、家に帰りくつろいでいる頃だろう。
電話の一本くらいかけてやるべきか。そう思って、篠宮はポケットから携帯電話を取り出した。
もしかしたら結城は、恋人が出張に行っている寂しさを紛らわすため、友人たちと飲みにでも行っているかもしれない。風呂に入っているかもしれないし、テレビを観ているかもしれない。そんな考えがふと頭をかすめる。
しかし、無事に着いたと知らせるくらいはかまわないだろう。少し迷ってから、篠宮は指を伸ばしてコールボタンを押した。
『篠宮さん!』
一瞬の呼び出し音の後に、結城の嬉しそうな声が響いてくる。もしかしたら、電話を握り締めたまま待ちかまえていたのか。そう思ってしまうほどの素早さだ。
『出張先からわざわざ電話してくれるなんて嬉しい! なんか、仲のいい夫婦みたい』
「馬鹿……今日の仕事がどうだったか、気になって連絡しただけだ」
わざと苦りきった声で返事をしてみるが、結城にはいっこうに通用しない。幸せそうに頰を緩めた顔が眼に浮かぶようだ。
『仕事なら大丈夫ですよ。なんか天野係長が、やたら気ぃ遣って、いろいろ手助けしてくれて。俺一人でちゃんと仕事できるか、そんなに心配だったんですかね? 俺、篠宮さんが有給や代休取った時も、真面目に仕事してたはずなんだけどなあ』
「まあ……心配だったんじゃないか」
天野係長が結城のことを気にかけていたのは、今回の出張の件があったからだろう。愛しい恋人が他の男と同室に泊まると聞いて、結城が冷静でいられるわけがない。部下がとんでもないミスをしでかさないか、気にするのは上司として当然といえる。
『そりゃあ……話を聞いた時は、たしかにちょっと動揺しちゃったけどさ。俺、篠宮さんのこと信じてるもん。俺以外に身を任せることはないって誓ってもらったんだから、おとなしくいい子で待ってるよ。でも、本当に気をつけてよね。どこで誰が狙ってるか判らないんだから。なんたって、俺の例があるでしょ』
篠宮に危機感を持たせるためか、結城は意図的に自分を引き合いに出して苦笑した。
「まったく……君はいったい、私のことをなんだと思ってるんだ」
『世界一綺麗で可愛い俺の恋人。ほんと、魅力的な恋人を持つと苦労するよねー。ま、それを補って余りある幸せを感じられるから、別にいいんだけど』
言葉どおり幸せいっぱいといった声を出し、結城がへらへらと笑う。篠宮は額を押さえて嘆息した。
結城と付き合い始めた頃は、とりあえず二か月くらい相手をしてやれば恋も冷めるだろうと思っていた。しかしながら今のこの状況を見ると、病状はさらに悪化していると認めざるを得ない。
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