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もうちょっと楽しませて
『ね、ね。篠宮さん。今なにしてるの?』
篠宮の気も知らず、結城は浮かれた口調で問いかけてきた。おそらく頭の中で、仲の良い夫婦ごっこでも楽しんでいるのだろう。考えようによっては実に高度な遊びだ。どんな状況でも楽しみを見つけられる、結城の才能が羨ましいような気さえする。
「これから一休みして風呂に入るところだ」
『牧村さんは?』
「一階の大浴場に行った。露天風呂も併設されてると話していたが……安心しろ、私は内風呂を使う」
『そっかあ。ごめんね篠宮さん、せっかくの露天風呂なのに。でも大きなお風呂に行くのは、俺がそばにいる時にして? 可愛い可愛い篠宮さんを、飢えた狼の中に一人で放り出すわけにはいかないんだよ』
「何を言っているんだ……意味が解らないぞ」
篠宮は溜め息まじりに返事をしたが、牧村から可愛いと評されたことは言わずにおいた。結城がせっかく聞き分け良く待っているのに、余計なことを言って煽る必要はない。
『ね。牧村さんって、どのくらいで戻ってくるかな』
「そうだな。風呂だけなら、早ければ三十分くらいだろうが……その後、ビリヤードの練習に行くと言っていた。一階の遊戯場に、自由に使える台がいくつかあるらしい。遅くなるから、先に寝ていていいと言われた」
『じゃあ、しばらく戻ってこない?』
「それは分からないな。もしかしたら気が変わって、ビリヤードなど行かずに帰ってくるかも」
『いや……そう言ってたなら、牧村さん、帰りはきっと遅いよ。俺、前にさ。牧村さんがあんまり嬉しそうに家族のこと話すから、結婚生活に不満はないんですかって訊いたことあるんだ。そしたらさ。「学生時代はビリヤードが趣味だったけど、結婚してからは家族優先で練習もできなくなっちゃったから、それが不満といえば不満かな」って答えてた。だから、チャンスがあるなら絶対に行くよ。同じビリヤード好きの人にも会えるかもしれないし』
「そういうものか」
『そういうもんだよ』
結城は自信たっぷりにそう言った。
『お風呂に入ってビリヤードだったら、あと二時間は戻ってきませんね……へへ』
電話の向こうから小さな笑い声が聞こえる。篠宮は首を傾げた。牧村は、先に寝ていてくれと言ったのだ。普段の結城の思考回路で考えるなら、篠宮が無防備に眠っているところに他の人間が入ってくるなど、貞操の危機以外の何物でもないだろう。それを気にした様子もなく、逆に嬉しそうにしているのはちょっとばかり妙だ。
「なんでそんなに嬉しそうなんだ」
『だって牧村さんが戻ってきたら、篠宮さんと話せなくなっちゃうもん。篠宮さんのほうから電話してくれたっていう幸せを、いま噛み締めてるとこなんだから。もうちょっと楽しませてよ』
牧村係長補佐が帰ってくるまで、寝かせないつもりらしい。そう気づいた篠宮は、苦虫を噛み潰したような顔になった。
「いつまで話すつもりなんだ。私だって風呂に入りたいんだぞ」
『内風呂だったらいつでも入れるじゃん。俺、今日一日篠宮さん無しで過ごしたんだよ? 声ぐらい聞いとかないと栄養補給できないよ。通話料かかんないんだから良いでしょ? ね? もう少しだけ』
結城が甘えた声を出す。きらきら輝く上目遣いの瞳が見えたような気がして、篠宮は大きく溜め息をついた。
離れた場所にいる寂しさを、せめて電話で話すことで紛らわせたい。そう思っているのは自分のほうかもしれない。なんだかんだと言っても、結城は篠宮が本当に嫌がることはしないのだ。
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