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ふたつの約束

「えー、でもさー。篠宮さんこんなに色っぽいんだから。そうやって一緒にお酒飲んでるうちに、好きになっちゃったりしない? 性的な意味で」 「馬鹿なことを言うんじゃない。あれだけ女性好きな部長が、私に興味を持つはずがないだろう」  部長の趣味がクラブやスナック通いであることは有名だ。妻のほうは夫のクラブ通いを男の甲斐性として認め、自らも旅行などで適当に憂さ晴らしをしているらしい。潔癖な篠宮からすると不思議な関係に思えるものの、上手くいっているのであればそれで良いのかという気もする。世の中にはいろいろな夫婦の形があるものだ。 「でもなあ……お酒飲んでる時の篠宮さん、フェロモンがだだ漏れしてるからさあ。間近であの顔見たら、ちょっと出来心でチュッてしたくなったりとか……」 「頼むから妙なことを言うのはやめてくれ……想像してしまった」  実際に部長の顔が近づいてくる光景が頭に浮かんで、篠宮はとっさに横を向いた。 「へへ。まあ他の奴らには気の毒だけど、篠宮さんは俺のだからね。絶対に、誰にも渡さないよ」  篠宮の顔を両手ではさんで自分のほうに向き直らせ、結城はくちびるに軽くキスをした。 「篠宮さん、約束だよ……言って」  顔を離し、結城がうっすらと微笑む。出張に行く前に、ふたつの約束をしたことを篠宮は思い出した。 「忘れてなかったのか」 「忘れるわけないじゃん」  結城がきっぱりとした口調で言い切る。  篠宮は諦めて視線を上げた。仕方ない。結城は言われたとおり留守番をしていたのだから、こちらも約束を果たすべきだ。  くちびるを閉じ、一呼吸して心を落ち着ける。軽く息を吸ってから、篠宮はその言葉を口にした。 「……愛してる」  少しばかりためらいつつも、篠宮は真剣な表情で結城の顔を見つめた。素面(しらふ)で、眼を見て、心を込めて。結城の言った条件はすべて満たしている。 「く……」  噴き出すのをこらえるような声を出して、結城が顔を伏せた。 「失礼な奴だな。君が言えというから言ったんだぞ」  あまりといえばあまりな態度に、篠宮は機嫌を損ねて口をへの字に曲げた。 「ごめん、失礼とかそういうんじゃなくて……違う。違うんだよ」 「なにが違うんだ。どうせ、笑いたいのを我慢してるんだろう」  下を向いたまま肩を震わせている結城に向かい、篠宮はむっとした口調で言い放った。結城ならともかく、自分にはそんな甘い言葉は相応(ふさわ)しくない。『愛してる』と口にするなんて、柄じゃないのだ。 「ごめん篠宮さん。本当に違うんだよ。なんだろう、これ……お腹の底がむずむずして、泣きたいような笑いたいような……これって、幸せって事なのかな」  泣きたいような笑いたいような。まさにそのとおりの声音で呟いて、結城は顔を上げた。瞳にうっすらと涙が浮かんでいる。 「結城……」  その涙に不覚にも心を動かされ、篠宮は声を震わせた。たった一言、愛してると伝えただけで、自分はこんなにも彼を幸せにすることができるのか。そう考えただけで、自らの胸も同じ感情で満たされるのが分かる。 「篠宮さん。俺も愛してる……! 愛してる、愛してるよ」  結城が両腕を伸ばし、篠宮の身体を勢いよくベッドに押し倒す。 「待て結城……落ち着け」  慌てて、篠宮は結城の肩を手のひらで制した。首の辺りに鼻先を(うず)めた結城が、悪戯っぽい笑みを浮かべて顔を上げる。 「危ない危ない。二個目のお願い忘れるとこだった」  上半身を起こし、結城はごそごそと棚の中を探った。

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