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モテる男は大変
週の仕事も終わりに近づいた、木曜日の午後。篠宮が手洗いで用を済ませ、ハンカチで手を拭いていると、不意に横から声をかけられた。
「あ、篠宮くん。これから休憩?」
篠宮は隣を見た。同じ一課の先輩である、牧村係長補佐がにこやかな顔を向けながら立っている。
「ああ……はい。結城くんに、来客があった際の席次について説明していたら、少し遅くなってしまって」
「そっかー。篠宮くんに指導してもらったら、結城くんもこの先ビジネスマナーで困ることはないね。シトリナさんのほうは順調?」
「ええ。長期契約については、ほぼ決まっている状況で。今は開始時期と細かな条件を詰めているところです」
「へえ、凄いじゃない。じゃあ、結城くんが篠宮くんの元から巣立つのももうじきだねえ。このまえ入社したばかりみたいな気がするけど、過ぎてみるとあっという間だよね。どう篠宮くん? ちょっと寂しいなんて思ってるんじゃないの?」
自らの過去を併せて振り返ったのか、牧村が感慨深げに呟く。去年の十月に応接室に呼ばれ、部長から新たな任務を言い渡されたことを篠宮は思い出した。
結城の教育係を務めて、もう八か月になる。恋人云々の感情を抜きにしても、これだけ面倒を見ていれば少しは愛着が湧いてくる頃だ。ちょっと寂しい。自分の心を正直に見つめ直せば、たしかにそんな気もする。
「とんでもない。これでやっと肩の荷が下りますよ。せいせいします」
間をおかず、篠宮は即座にそう口にした。本音でもあれば、建前でもある。
「そうなの? 相変わらず冷たいなあ。結城くんが聞いたら泣いちゃうよ」
冗談めかした口調でそう言うと、牧村係長補佐は眼を細めて笑った。
「そういえば。昨日の夜、山口くんたちと飲みに行ったら、篠宮くんの話で盛り上がってさあ」
「私の話……ですか」
「あ、もちろん悪い噂じゃないよ。篠宮主任って彼女いるんですかねって佐々木くんが訊くから、そりゃ居るだろってみんなで言い返したんだ」
当然といった顔で牧村が話を続ける。相槌を挟むこともできず、篠宮は言葉に詰まって黙りこんだ。
「なんかさ。このまえ佐々木くんの結婚式があったじゃない。その時に佐々木くんの奥さんの友達が、篠宮くんを見て、できたらお近づきになりたいなー的なことを思ったらしいんだよね。で、紹介してくれないかって奥さんを通じて頼んできたそうなんだよ」
モテる男は大変だよねと、牧村係長補佐は愉快そうに笑った。
「でもさ。篠宮くん、先週の出張の時、結婚っていいものですかって俺に訊いてきたじゃない? あの時なんとなく、篠宮くんも結婚を視野に入れて付き合ってる人が居るのかなって思ったからさ」
答えに困って、篠宮はさらに固く口を閉ざした。彼女ではないが、恋人なら居る。結婚を視野に入れているかと問われれば……たしかに、入れているような気もする。
「篠宮くんほどの人に彼女が居ないわけもないじゃない。それに真面目だから、複数の人と同時進行ってこともなさそうだし。その話をしたら、佐々木くんもやっぱりそう思ったみたいでさ。すでに心に決めた相手がいるのに、他の人から告白されても迷惑なだけだし、紹介の話はとりあえず断わっておこうかなって言ってたけど」
「いえ、彼女というわけでは……」
篠宮は曖昧に答えを濁した。
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