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本当に耳ざとい
手洗いを出た篠宮は、真っ直ぐいつもの休憩所へ向かった。
今日は結城が、社内食堂で月に一度だけ販売されるという、特別メニューのサンドイッチを買ってきてくれることになっている。
頑張ってゲットしてくるから、篠宮さんは休憩所で待っててね。結城がそう言って階段を駆け上がっていったのが、今から十分少々前のことだ。
篠宮は腕時計に眼を向けた。少し並ぶかもしれないが、十五分はかからないと言っていた。早ければ、もうそろそろ戻ってくる頃だろう。
ばたばた、と床を踏み鳴らす音が聞こえたのはその時だった。
結城ではない。複数……たぶん四、五人の足音だ。ヒールの音らしきものが混じっているところをみると、足音の主は女性かもしれない。
騒々しい。そう思って篠宮は眉をひそめた。廊下を走ってはいけないと、学校で教わらなかったのか。真面目すぎるほど真面目な性格のせいか、規律が守られていないのを見ると、些細なことでも苛立ってしまう。
とはいえ。この足音を立てているのがもし結城だったら、自分はきっと苦笑しながらも許してしまうだろう。本当に、自分は恋人に甘い。もう少し厳しくしたほうが良いのかと、篠宮が考えをめぐらせたその時だった。
「居た! 篠宮主任!」
ヒールの音を響かせ、何人かの若い女性が駆け寄ってきた。たまに顔を合わせることもある、隣の部署の女性社員たちだ。
わざわざ名指しで呼ばれたということは、自分に用事があるのだろう。昼休みの時間ではあるが、仕事関連のことで何か急用があるのかもしれない。何の用か尋ねようとした篠宮は、次の一言を聞いて度肝を抜かれた。
「結婚されるって本当ですか?」
「……は?」
意表を突かれて、思わず無遠慮な受け答えをしてしまう。そんなことなど気にした様子もなく、彼女たちは互いに押し合い、身を乗り出すようにして話し続けた。
「さっき営業部の前を通ったら、牧村さんと佐々木さんが立ち話してたんですよ。篠宮主任が結婚するかもって」
ああ、先ほどのあの話か。手洗いで牧村係長補佐と話したことを思い出して、篠宮はなんとなく納得した。
おそらく彼が営業部に戻った時に、入り口あたりに立っていた佐々木とすれ違って、奥さんの友達を紹介するのはやめたほうがいいという話をしたのだろう。たまたま近くを通った企画部の女性たちが、それを聞きつけたというわけだ。彼女たちときたら本当に耳ざとい。
「結婚……まあ、いつかはするかもしれませんが。そんな事は、別に私に限った話ではないでしょう」
将来的に結婚する可能性くらい、誰にでもあるだろう。誰もがうなずくであろう当たり前の事実を述べて、篠宮はお茶を濁した。
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