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火のないところに煙は立たない
可愛くてスタイルが良くて茶目っ気もあって、嫌味なくらい男にとって魅力的な女。それをすべて集約すると、つまりは守川絵里奈ということになるらしい。
「え。それ、マジな話……? 彼女? 結婚?」
具体的なアイドルの名を聞いて、頭の中で急にイメージが固まったらしい。表情を改め、結城は愕然とした顔で掠れた声を出した。
「そうよ。知らなかったの? 他の人と結婚なんてしたら死んでやるって、結城さんが縋りついて脅したって話だったわよ」
噂に尾ひれがつくというのはこういう事かと、篠宮はその経緯を目 の当たりにして初めて納得した。話を聞いた人がそれぞれ自分の想像を混じえ、すべてが微妙に食い違いながら伝わっている。
「篠宮さん! 可愛い彼女って誰? 俺、そんな話聞いたこともないけど?」
先ほどまでのんびり構えていたのが嘘のように、結城が血相を変えて問い詰めてくる。他人がいる手前、君のことだとも言えず、篠宮は返事に窮した。
「そ、それは……」
「結婚って本当なの? どういうこと? ひどいよ篠宮さん、俺という人がありながら!」
「君という人と言われても……違う。違うんだ、結城」
しどろもどろになりながら、篠宮は必死で首を振った。他の人がいる前で、好きなのは君だけだと言うわけにもいかない。
「火のない所に煙は立たないでしょ!」
感情が抑えきれなくなったのか、結城がいきなり立ち上がる。その眼には、今にも溢れんばかりに涙が溜まっていた。
「ま……待ってくれ」
座ったまま窓際に追い詰められ、篠宮は激しく動揺した。結城の潤んだ瞳を見て、自らも涙ぐんでしまいそうなほどに心が痛む。今すぐ抱き締めて誤解だと言ってやりたいのに、それもできない。
「うわ、修羅場だ!」
他人の痴情のもつれを見て、彼女たちが嬉しそうに眼を輝かせた。
「結城さん、頑張って篠宮主任を振り向かせて! 可愛くてスタイルがいいだけの性悪女なんかに負けるな!」
「えー。でも篠宮主任が結婚したら、結城さんもさすがに諦めて、私たちに眼を向けてくれるようになるかもしれないじゃない。ここは絵里奈似の彼女に頑張ってもらわないと。篠宮主任、結城さんの横恋慕に負けないで、幸せなゴールを目指してくださいね!」
それぞれの思惑を胸に、女性たちが口々に無責任なことを言って囃 し立てる。
「篠宮さん、どういう事ですか! 俺、浮気されるようなことしました? ちゃんと説明してください!」
「いや、浮気とかそんな話では……」
「じゃあ彼女って話はどっから出てきたのさ? ひどいよ篠宮さん、俺の身体をさんざん弄 んどいて!」
結城が悲痛な声で訴えかける。弄んだのはどっちだと思ったが、この状況では反論もできない。
「嘘……嘘ですよね篠宮さん? 篠宮さんが他の人と結婚するなんて言ったら、俺、何するか分かんないからね……?」
平和なはずの昼休みの休憩所に、涙まじりの声が響く。
こうして結城の執拗な追及は、企画部の女性たちが仕事に戻るために立ち去り、篠宮が彼の手を握って変わらぬ愛を誓うまで続いたのだった。
なお、ケバブサンドは非常に美味だった。こんな状況でなければ、大辛ソースのスパイシーな風味を、もっと穏やかな気持ちで心ゆくまで楽しめたに違いない。
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