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君に出逢えて幸せ

「俺が最初に付き合ってた子なんだけどさ。向こうは俺が童貞だって知ってたから、けっこう積極的に誘ってきたんだよ。それでまあ、割と早めにそういう雰囲気になって……で、事が済んで帰るときになってさ。その子が急に、別れましょうって言い出したんだよ。理由を訊いたら『初めてのくせに淡白すぎ』だって」 「淡白? 君がか? 信じられないな」  想像すらしなかったその話に、篠宮は目を丸くした。結城が淡白の部類に入るのだとしたら、この世の九十八パーセントの人は淡白ということになってしまうだろう。 「その後も何回か他の子としたけど……やっぱり、ぜんぜん盛り上がらなくって。結局のところ、俺って下手なのかなって、自信も興味もなくしてた。今の俺がしつこくねちっこく何回も欲しがるのは、相手が篠宮さんだからだよ。俺が本当に欲しいと思ったのは、篠宮さんだけだもん」  夜風が髪を撫でていく。暖を取るように、結城は篠宮にしがみついてぴったりと身を寄せた。 「こんなこと言ったら、物凄く怒られそうだけどさ。篠宮さんと出逢う前に他の女の子たちと付き合っておいて、かえって良かったのかもしれないな。もし童貞のまま篠宮さんを抱いちゃってたら、俺もっとガツガツしてて、篠宮さんを気持ちよくさせるどころじゃなかったと思うんだよね」 「充分がつがつしてたぞ……」 「それは、篠宮さんが魅力的すぎるのが悪いんだよ。俺のせいじゃないもん」  不意に言葉を切って、結城が視線を上に向ける。見上げた空に、五億の鈴が輝いていた。 「篠宮さん。俺、篠宮さんと出逢えて本当に良かったと思う。篠宮さんにめぐり逢わなかったら、恋するってどんな気持ちなのか、ずっと知らないままで過ごすところだった」  引き寄せるように肩を抱き、結城が耳許にキスをする。夜空に眼を向けたまま、篠宮は静かにその甘い囁きを聞いた。 「沢山の人と付き合って、何度も何度も結婚して、それでも運命の相手に一生出逢えない人だっているのに。それに較べたら、俺はすごく恵まれてるよね。篠宮さんと出逢えて、今こうして一緒に居ることができるんだから」 「結城……」  微かにうつむいて、篠宮は自分の手許に視線を移した。揃いの指輪が星明かりを受け、小さな火花のようにきらめいた。  自分も、君に出逢えて幸せだと思っている。そう答えようとしたが、素直に言葉が出てこない。強張(こわば)ったまま動いてくれないくちびるを、篠宮は夜の寒さのせいにした。 「冷えてきたね。お風呂入ろっか」  カップの載った盆を持ち、結城が立ち上がる。後に残った毛布を抱え、篠宮はその後に続いた。室内も決して暖かいとはいえないが、風呂に入って湯冷めしないうちに眠れば、充分快適に過ごせるだろう。 「ね……篠宮さん」  コーヒーカップを流しに置き、結城は微笑と共に振り返った。 「なんだ」 「さっき『私も君に出逢えて幸せだ』って思ったでしょ?」  野性の勘というべきか、相変わらず超能力のような鋭さで、結城が篠宮の心の内を見透かす。図星を指され、篠宮はついいつもの癖で意地を張った。 「自意識過剰だ。馬鹿」 「あー! いいのかなーそんなこと言って。今日は早く寝ようって言ったけど、前言撤回! 正直に話す気になるまで、ベッドの上で苛(いじ)めるからね。俺はいいけど、篠宮さんはまた朝が(つら)くなるよ。それでも構わないんだね」  拗ねた顔で結城が口をとがらせる。さっさと肯定しておくべきだったと気づいて、篠宮は小さく嘆息した。この様子では、自分の口から望む言葉を聞くまでは、絶対に諦めないだろう。 「まったく……仕方のない奴だな。言えばいいんだろう、言えば」  諦めて肩をすくめ、篠宮は結城のほうに歩み寄った。向かい合って彼の袖に触れ、軽くまばたきをして視線を合わせる。 「……私も君に出逢えて幸せだ」 「えへへ……」  滅多に聞けない篠宮の愛の言葉を耳にして、結城の口許が一気に(ほころ)んだ。 「よろしい! 合格」 「偉そうに……」  呆れたような篠宮の声を聞きながら、結城がわざとらしく胸を張ってみせる。その得意げな表情が可笑しくて、篠宮は噴き出したい気持ちを必死になってこらえた。

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