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世界中を旅したい

 清々しい朝の風が、僅かに開けた窓の隙間から流れこみ、淡い緑のカーテンをそよがせている。 「篠宮さん。コーヒー、ここに置いとくからね」 「ああ。ありがとう」  いつもの週末のような会話を交わしながら、篠宮はスーツケースから着替えを取り出した。  白、黒、茶色。しばらく迷った後に、下ろしたての白いシャツに袖を通す。旅行のついでに普段着を新調しようと、色違いで買い揃えた木綿のシャツだ。  身支度を整え、篠宮はカーテンを開けた。窓の外には、見渡すかぎり緑の野原と緩やかな丘が続いている。  席に座ると、結城はすでに二杯目のコーヒーを淹れているところだった。朝食はシリアルと牛乳、サラダにスクランブルエッグといったところだ。ありふれたメニューでも、木の香りが漂う洒落たコテージで味わうと、格別に美味しく感じられる。 「旅行というのも、たまにはいいものだな」  篠宮が何気なく呟くと、結城は嬉しそうに眼を輝かせた。 「でしょ? たまにと言わず、これからはちょくちょく行こうよ。俺、篠宮さんと一緒に世界中を旅したい!」 「金がいくらあっても足りないな」 「大丈夫! 途中で資金が足りなくなったら、俺がバイトしてなんとかするから。海に落ちて無人島に流れ着いたら、俺が食べるもの見つけてくるよ。篠宮さんはなんの心配もしなくて大丈夫」 「そんなサバイバルは嫌だぞ……」  冗談か本気か判らない結城の言葉を聞きながら、篠宮は苦笑を浮かべた。もともと自分は、旅行などにまったく興味がない。電車や飛行機を乗り継いでわざわざ疲れに行くよりは、家でくつろいでいたほうが良いと考えていたからだ。  どういう心境の変化だろうかと、篠宮は自分で自分の心を訝しく感じた。恋人と一緒に世界中を旅する。結城の満面の笑顔を見ていると、それも悪くないかと思ってしまう。 「さてと、そろそろサンドイッチ詰めようかな。あ、篠宮さんの好みに合わせて、マスタード多めにしといたからね。楽しみにしてて」  がたりと音を立てて椅子から立ち上がり、結城は小躍りしそうな足取りでキッチンに向かった。重ねたサンドイッチの上にある重石(おもし)を取り、器用に切り分けて紙箱に詰め込んでいく。  その重石は何のために載せていたのか。そう尋ねようとしてから、篠宮は思い直して口をつぐんだ。おそらく、聞いたところで到底自分には理解できないような、霊妙かつ深遠な理由がそこにはあるに違いない。 「ほんと、いい天気で良かったよね。まさに長閑(のどか)な田舎! って感じ。聞こえる音といったら、鳥の声くらいで……ん?」  結城が唐突に黙りこむ。彼に合わせて、篠宮は外の音に耳を澄ませた。何かが小刻みに地面を蹴っているような、規則正しく軽快な音が聞こえる。

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