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深窓の令嬢

「なんか、宝の地図の目印みたいだね。俺と篠宮さんが子供だったら、絶対にあそこまで駆けっこしてるだろうな。先に着いたほうが宝を手にできるんだ、とかなんとか言って」  宝の地図の目印。その言葉を聞いただけで、なにやら冒険小説に出てくる主人公のような気分になってくる。自分にも意外に子供っぽい一面があると知って、篠宮は自らに呆れながら笑みを浮かべた。 「競走してみるか?」  結城とふたり日本を離れ、せっかくこんな大自然の中まで来たのだ。この機会に、思いきり羽目を外してみるのも悪くない。恋人の顔を横目で見つめ、篠宮は挑戦的に呟いた。 「またまたー。無理しないでよ、篠宮さん。悪いけど俺、スポーツはけっこう得意なんだ。俺のほうが勝つに決まってるじゃん」 「実際に走ってみなければ分からないだろう。これでも学生時代は割と足が速いほうだったんだぞ」 「えー、ほんとに? 篠宮さんはどっからどう見ても、おしとやかな深窓の令嬢でしょ。箸より重い物なんて持ったことありませんって感じ。大丈夫? 篠宮さん。走るなんてできるの? 泳げる? 縄跳びできる? 自転車乗れる?」  とんでもなく失礼な言葉と共に疑いの眼を向けられ、篠宮はむっとした顔で結城を睨みつけた。 「あはは、怒った! 篠宮さんかわいー!」  怒られて意気消沈するどころか、結城は眼を細めて楽しそうな表情を見せた。 「はいはい分かりました。じゃあ競走してみようよ。お姫様の気まぐれに付き合うのも、騎士の役目だもんね」  まるっきり、自分が勝つと思いこんでいる口調だ。心の奥に眠っていた闘争心を刺激され、篠宮は胸が高鳴るのを感じた。 「じゃああの樹まで競走だよ。はい……よーい、どん!」  結城の掛け声を合図に、篠宮は斜面を駆け下りていった。  勢いをつけて走っていく結城の背中を見ながら、篠宮はあえて小刻みに草を踏みしめ、その後を追いかけていった。下り坂では一定のペースを保って、無理をせず走るのが基本だ。そのほうが平坦な場所に着いた時に、脚に負担がかからずに済む。  平地に下りると、篠宮はスピードを上げ始めた。前を走る結城の背がどんどん近づいてくる。ここが踏ん張りどころだとばかりに、篠宮は腹の底に力を入れた。  残りあと二十メートルというところで、初めて結城を追い越す。隣を通った瞬間、彼が息を飲む音が微かに聞こえた。  目的の樹に手をつき、勝利が確定したところで、篠宮は初めて振り返って後ろを確認した。スポーツが得意と豪語していただけあって、結城もなかなかの俊足だったが、それでも自分との間には二メートル以上の差がついている。 「嘘でしょ? 俺、絶対の自信があったのに!」  立ったまま膝に手をつき、結城ははあはあと肩を上下させながら声を絞り出した。 「そうやって慢心しているから追い抜かれるんだ」  篠宮もかなり息が上がってはいたが、それを結城に悟られるのは癪な気もする。あえて呼吸を抑え虚勢を張ってみせると、それを新たな挑戦と受け取ったのか、結城は不満げに口を尖らせた。 「篠宮さんに追い抜かれるなら別にいい……って言いたいところだけど。そういうわけにもいかないな。もし篠宮さんが本気で逃げたら、俺は篠宮さんを捕まえられないってこと?」 「そういう事になるな」 「それは困る! 俺の世界旅行のプランには、篠宮さんと砂浜で追いかけっこをするのも入ってるんだから!」 「……追いかけっこ?」  とっさに意味が分からず、篠宮が首を傾げて聞き返す。結城が真面目くさった顔で答えた。 「そう。よくあるでしょ、カップルが砂浜でじゃれ合って『私を捕まえてみて!』『よぉし、行くぞー』『きゃははー』みたいなやつ。走れば走るほど差がついていったら、カッコつかないじゃん!」 「はあ……」  篠宮は呆れて溜め息を洩らした。大昔の恋愛映画やドラマで、たしかにそんなシーンを見たことがある。だがあれは撮影のための完全なるフィクションであり、実際にそんな恥ずかしい真似をするカップルが存在するはずはないと思っていた。 「速さでは負けるかもしれないけど、体力じゃ絶対負けないもん! なんだかんだ言っても、俺のほうが若いんだから。最後には絶対追いつくはず!」  結城が自信たっぷりに胸を張る。対する篠宮も負けてはいない。その鼻をへし折ってやるとばかりに、口許をゆがめて不敵な笑みを返した。 「二つくらいの歳の差なんて関係ない。要は普段の鍛えかただ」 「じゃあ試しに、手加減なしで逃げてみてよ。俺、絶対に篠宮さんを捕まえてみせるから」 「言ったな……」  腰につけたペットボトルを外し、静かに樹の根元に置く。宣戦布告の合図だ。  両脇を締めて拳を握り、篠宮は走りだす姿勢を整えた。結城がそれに応え、同じように荷物を置いて身構える。  追いつけるものなら追いついてみろ。そう眼で告げてから、篠宮は大きく足を踏み出した。

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