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誰であろうと

 軽く口の中を湿してから、篠宮はゆっくりとペットボトルを傾けた。結城と同じく溜め息が出そうになり、慌てて息を止めて自制する。木陰に置いてあった茶は、まだ充分に冷えていて、渇いた喉を急速に潤してくれた。 「ねえ。あれ、昨日のウサちゃんじゃない?」  唐突にそんなことを言い出し、結城が遥か向こうの茂みを指差した。 「兎……? 何処にいるんだ」 「ほら、あそこ」  そう言われて、篠宮はさらに眼を凝らした。背の高い草が生えている少し手前に、たしかに茶色っぽい毛玉のようなものが見える。 「また始めないかって期待してんのかな? どうする篠宮さん、期待に応えちゃう?」 「絶対に嫌だ」  肩にじゃれつく結城を押し戻すようにして、篠宮は思いきり顔をそむけた。昨日の顛末を思い出し、頰が熱くなっていく。たとえ誰であろうと、結城以外にあの姿を見せるなんて真っ平御免だ。 「近づいたら逃げちゃうかな。ねえ篠宮さん。もっと近くに行って、本当に昨日のウサちゃんかどうか見てみようよ」 「そうだな。もし昨日の兎だったら、捕まえて兎鍋にしてやる」 「あはは、酷いな篠宮さん! やっぱ、美しく冷酷な月の女神様は、そうでなくっちゃね」  楽しそうに笑い声をあげ、結城が篠宮の発言を茶化す。もちろん本当に兎鍋にする気など、篠宮には毛頭ないと知った上で言っているのだろう。 「ぜんぜん逃げようとしないね。こっち見てる……やっぱり昨日のウサじゃない? 篠宮さんに惚れちゃったんだよ、きっと」  結城の軽口を適当に聞き流しつつ、彼と並んで徐々に茂みのほうへ向かっていく。十五メートルほどの距離まで近づくと、あまり視力の良くない篠宮にも、辛うじてその毛の塊が兎らしいと分かった。 「昨日のかどうか判らないが……同じ種類であることは確かだな」 「だよね?」  相手を驚かさないように、結城が小声で返事をする。  篠宮たちがそばに来たのを見て、兎は警戒するように駆け出した。だが、完全に逃げ去りはしない。少し離れた所まで来ると立ち止まり、一定の距離を保ちながら振り返って後ろを確認している。 「ねえ。なんか、付いて来いって言ってるような気がしない?」 「まさか……」  そんな馬鹿なことがあるわけはないと思いつつも、なんとなく興味を引かれて後についていく。導かれるまま坂道を登り、樹々の間に間に分け入ると、辺りは先程と打って変わって薄暗くなった。  篠宮はもと来た道に眼を向けた。大した距離ではないから、道に迷う心配はないだろう。あれほど照っていた陽の光が急に暗くなったような気がするのは、重なり合った樹の葉のせいだ。

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