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クローバーの冠
「穴に落ちて不思議の国に行ったりしないだろうな」
「それならそれで良いじゃん。篠宮さんと一緒なら、俺はどんな所でもいいよ」
茶目っ気たっぷりにウインクをして、結城が篠宮の手を取りながら歩を促す。そのとき篠宮は、自分たちの行く手から微かな香りが漂ってくることに気がついた。素朴でどこか懐かしいような、ほのかに甘い香りだ。
眼の前の兎が急に駆け出していく。なんとなく気持ちが逸 り、篠宮は結城に手を引かれたまま後を追った。
小石を蹴り土を踏みしめて、林を抜ける。陽光が降り注ぎ、辺りの景色が急に開けた。
「あっ……!」
驚きのあまり言葉を失い、篠宮はその場に立ち尽くした。隣にいた結城が身を乗り出し、感嘆の声をあげる。
「うわ凄い! クローバー畑だ!」
樹々に囲まれた野原に、白詰草の花が一面に咲いている。飾り気のない甘く優しい香りが、静かに胸に染み透っていった。
「やっぱりあのウサちゃん、俺たちをここに連れてきてくれたんだよ」
「そうかもしれないな」
篠宮は素直にうなずいた。
茶色い兎がぴょんぴょんと軽快に跳ね、野原の片隅に陣取って柔らかな葉を食べ始める。お気に入りの場所なのだろう。
「せっかくだから、ちょっと景色見ながら休憩しようよ。まだお昼までには時間があるし」
「ああ」
当然そうすべきと思われる結城の提案に、一も二もなく頷く。可憐に咲く白い花の間を通り、適当な木陰を見つけて篠宮たちは腰を下ろした。
陽射しは暖かいが、八月と聞いて思い浮かべる、あの厳しく照りつける太陽とはまるで違う。日本で言うなら、冬場の小春日和くらいの感覚だ。
「あ! 別のウサちゃんが来たよ」
結城が、少し離れた場所にある樹の陰を指差す。新しく現れた兎は、篠宮たちをここまで連れてきた仲間のそばまで行くと、のどかな昼食を共に楽しみ始めた。
「可愛い! 美味しそうに食べてるね」
結城に言われ、篠宮は彼が指差す方向をじっと見つめた。二匹の兎が並んで仲良く草を食んでいる姿は、文句なしに微笑ましい。
「……俺もすこし貰おうかな」
唐突にそう言ったかと思うと、結城は近くにある白詰草の花をそっと摘み取った。
「花なんて摘んで、どうするつもりなんだ」
せっかく綺麗に咲いている花を、用もなく摘み取るのは気が咎める。そんな思いを言外に込め、篠宮は結城に眼を向けた。
「まあ見ててよ」
なだめるように言葉を返し、結城は傍らからさらに花を摘んだ。先ほどの花を左手に持ち、右手で新しく摘んだ花を絡めて器用に編み始める。
「花を繋げてどうするんだ」
「……クローバーの冠だよ。篠宮さん、作ったことない?」
当然といった口調で結城が答える。生まれてこのかた、野山の草花などに馴染みのなかった篠宮は、眉を寄せて即答した。
「あるわけないだろう。花の冠作りなんて、田舎の女の子の遊びじゃないのか」
「えー。俺、よく作ってたよ。うち、親父も兄貴もけっこうアウトドア派だからさ。キャンプ先に行くと、こんな風に花がいっぱい咲いてて……タンポポだとかれんげ草だとか、よく摘んで冠にしてた。編み始めると、けっこう楽しくってさ」
話をする間にも、結城は次々と花の輪を紡いでいった。
白い花が指の間をくぐり抜け、あっという間に長い花綱になっていく。まるで手品を見ているようだ。その華麗な手さばきを眺めるうちに、篠宮は考えを変えた。人知れず咲いて枯れていくより、たとえ一瞬でも、こうして人の眼に留まって愛でてもらうほうが良い。それを幸せだと感じる花も、もしかしたら存在するのかもしれない。
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