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よくある話

「カナダのアルバータ州です」 「え。カナダ……?」  係長が鸚鵡(おうむ)返しに呟く。その顔が、なぜか急に強張(こわば)った気がした。 「そ、そうなの……どう? 楽しかった?」 「はい。良い休養になりました」 「えっと……あはは。それは良かったわね……」  妙に乾いた笑いを浮かべ、彼女は唐突に声を低めた。 「ねえ篠宮くん。その、カナダに行ったって話……他の誰かに言った?」 「いえ、まだですが……多田部長と牧村係長補佐には、普段からお世話になっておりますので、ささやかな物ではありますがお土産をお渡ししようと思っています。あとは山口くんと佐々木くんでしょうか。二人ともいつも、私の指示を守ってよく働いてくれていますし」 「ふうん……」  どこか変だと思いつつも篠宮が答えると、係長は何か考えこむように眉を寄せた。 「ま、いいわ。もしかしたら偶然だと思ってくれるかもしれないし、それに、まあ……たとえそうだったとしても、別にそこまでおかしな話じゃないわよね。うんうん、大丈夫よ。セーフだわ」  果たして何を考えているのか、彼女は勝手に納得し、自分だけうなずいている。  篠宮は言いようのない不安に襲われた。自分がカナダに行ったことに、何か問題があるのだろうか。そう思うと気になって仕方ない。 「あの……済みません、天野係長。『おかしな話』というのは一体……」 「あ、ごめん。あたし御飯食べてくるから! 篠宮くんは、もうお昼は済ませたの? もしまだなら、早く行ったほうが良いわよ!」  不自然な愛想笑いを浮かべ、彼女は逃げるように去っていった。  呆然としながら、篠宮はその後ろ姿を見送った。いったい彼女は、何をそんなに慌てているのだろうか。盆休みを利用して海外を旅行するなど、よくある話だ。特に問題があるとは思えない。  とりあえず、手許の土産物を配り終わってからゆっくり考えよう。そう判断を下し、篠宮はこれまた昼食に向かうところらしい、牧村係長補佐に声をかけた。 「あの、牧村係長補佐。ちょっとよろしいですか」  先ほど天野係長に説明したのと同じく、旅行したことを簡単に告げ、篠宮はTシャツの入った袋を渡した。  自他ともに認める愛妻家であり、優しいパパの見本のような人物である牧村は、もちろん家族サービスも怠りはしない。休みの日は、一家でキャンプに出かけることが多いと聞く。肌着代わりにも使えるTシャツなら、何枚あっても困らないはずだ。 「あれ。篠宮くん、カナダ行ったの?」  袋の中を覗きこんだ牧村は、Tシャツに付いたロゴマークを見てすぐにそう言った。  土産を買うにあたり、いろいろと調べた中にあった情報のひとつを篠宮は思い出した。自分の買ってきたこのTシャツは、アウトドア派の中ではそこそこ名の通ったメーカーの物らしい。安くて品質も良いが、カナダでしか流通していない物なので、土産にはぴったりだという話だった。 「ええ。カナダのアルバータ州に行ったんです。辺り一面緑に囲まれて、普段は見られない景色を楽しめました」 「へえ、いいなあー。うちも二人めが出来る前に、家族三人で海外にでも行ってこようかな。そういえば、結城くんもカナダに行ったって言ってたよ。偶然だね」 「ゆっ、結城……! いえあの、結城くんも、ですか……?」  突然出た彼の名に、篠宮は心臓を撃ち抜かれる思いで声を震わせた。 「そっか、篠宮くんは得意先に直行してて、朝はここに居なかったんだっけ」  篠宮が内心どんな気でいるかも知らず、牧村はにこやかに言葉を続けた。 「大きな包みを持って早々と出社したかと思ったら、カナダに行ってきましたって万歳しながら叫んでさ。朝一で、みんなにメープルクッキー配ってたよ。そりゃあもうご機嫌もご機嫌、この世の幸せをぜんぶ手に入れましたって顔で。放っといたらクッキーだけじゃなく、札束でも配り始めるんじゃないかと思ったよ。誰と行ったのか知らないけど、きっと、よっぽど楽しい旅行……」  言っている途中で何かに気がついたのか、牧村は急に頰を引きつらせて篠宮のほうを見た。

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