267 / 396
退屈知らず
「篠宮さん。心配しないで。俺、何があっても篠宮さんを守るから」
隣に座る結城が、真剣な表情で宣言する。一瞬感動しかけた篠宮は、次の言葉を聞いて再び溜め息をついた。
「篠宮さんをこんな身体にした責任は取ります。安心してください」
「こんな身体って……」
自らの足許を見下ろし、篠宮は赤面した。二十五になるまで初恋すら知らなかった自分に、恋を教え、愛を交わし合う悦びをさんざん教え込んだのは他ならぬこの男だ。
「馬鹿……」
ベッドの上で、裸で絡み合う自分たちの姿が一瞬脳裏に浮かぶ。くちびるを噛み、篠宮はその映像を頭から追い払った。社内でそのような事を考えるなんて、神聖な職場に対しての冒涜だ。
「そんなに警戒する必要ないと思うけどな。部長、普通に機嫌良さそうだったし。違反だとか罰則だとかそんな話なら、もうちょっと固い表情で話すもんでしょ?」
「それはそうだが。なんというか……応接室にはあまりいい思い出がないんだ」
「そうなの? 俺、あの部屋入ったことないんだよね。どんな感じなの?」
結城が興味深げに身を乗り出す。なんとか気を紛らわせようと、篠宮は応接室についてことさらに詳しく説明し始めた。
「ここの応接室は、どんなお客様が来ても失礼のないよう、最高級の調度で、重厚感を念頭において揃えているという話だ。上座の横にサイドボードがあって、歴代のヒット商品のサンプルが飾ってある。明かりは計算された間接照明で、決して薄暗くはなく落ち着いた雰囲気だ。ソファーは黒の革張りで、座り心地もいい」
「へえー、革張りのソファーなんですね! まるで高級クラブみた……って……あ! ちょっと篠宮さん、応接室にいい思い出がないってことは……まさかその高級ソファーの上で、誰かに何かされちゃったんじゃないでしょうね!」
相変わらず訳の解らないことを言って、結城が騒ぎ立てる。どうやら彼は、自分の恋人は世界一魅力的で、誰も彼もが隙あらばその身体を狙っているという妄想に囚われているらしい。
「何かってなんだ……くだらない。そんな事を考えるのは君だけだ」
肩をすくめつつも、篠宮は心の底で結城に感謝した。彼の埒もない軽口を聞いたおかげで、少しは気分が楽になった。
「いい思い出がないというのは、他でもない。部長に呼ばれて君の教育係を頼まれたのが、あの部屋だったんだ」
「もう。ひどいよ篠宮さん、人をお荷物みたいに……俺の教育係を引き受けたのがあの部屋だってことなら、悪い思い出じゃなく、いい思い出じゃないですか。えへへ。俺が入社したその日から、篠宮さん、退屈知らずで毎日楽しく過ごせてるでしょ?」
「楽しいかどうかはともかく……退屈知らずなのは確かだな」
結城の明るい表情につられて、篠宮は静かに微笑を返した。ここで思い悩んでいても意味はない。部長が自分たちを呼んだ意図がどこにあるかは分からないが、悩み事などひとつも無さそうな彼の顔を見ていたら、なんとなく吹っ切れた。
ともだちにシェアしよう!