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好きでたまらない
眼の前にいるのは、たしかに見慣れたはずの自分の部下だった。だが、たった一晩で人はここまで変わるものだろうか。眼は紅く腫れ、一睡もしていないことが一目で判る。髪も服も乱れ、憔悴しきって見る影もない。シャツは泥で汚れて鉤裂きができていた。
この寒い中、こんなに泥だらけになるほど何処を歩いてきたというのだろうか。真冬ではないとはいえ、夜の気温は零度をはるかに下回るのだ。
顔は蒼白で、くちびるも切れて血がにじんでいる。爽やかな朝の光の中で、その姿はあまりに異様だった。
「な……なん……だ」
なんだその格好は。殴り合いの喧嘩でもしたのか。そう冗談めかして笑おうとしたが、喉が引きつってうまくいかなかった。
「篠宮さん……」
掠れた声で結城が呟く。その眼から涙があふれ、頰を伝って落ちていった。崩れるように、結城は篠宮の肩に頭をのせた。その頰は氷のように冷えきっていた。
「死んでお詫びするつもりだったんです……でも、できなかった」
「馬鹿、死ぬな! 何を考えてる!」
篠宮が肩をつかんで思いきり揺さぶっても、結城は虚ろな眼差しでどこか遠くを見ていた。
「怖くなったんです」
独り言のように、彼はそう言葉を紡いだ。
「死んだら、俺のこの気持ちはどこへ行くんだろうって考えたら、急に怖くなった……あなたに逢えなくなるのも、あなたに嫌な思いをさせたままでいるのも、この身体が無くなって、もうあなたを好きだって感じられなくなることも……全部が怖くなった」
「もういい。とにかく奥に入って座れ」
とにかく生きていてくれたという安堵から、篠宮は深く溜め息をついた。両肩に手を置き、身体を支えながら結城を真っ直ぐに立たせる。篠宮がそこまでしても、結城は歩こうとせずその場に立ち尽くしていた。
「何もかも置いてきたつもりだったのに、このカードキーだけがシャツのポケットに入ってた……それを知った瞬間、あなたに逢いたくてたまらなくなったんです」
いくらか落ち着いた様子を見せながらも、結城はまだ涙を流し続けている。
自分は人を見る目がない。そう篠宮は思った。二か月のあいだ毎日のように顔を合わせていたというのに、自分は結城のほんの一面しか見ていなかった。ただ明るく陽気なだけに見えた彼が、恋という名の暗く重い情念を抱えて死ぬほど苦しんでいるなんて、考えもしなかったのだ。
「な、なんで……どうして、そこまで私のことを」
「解らない……理由なんてどうでもいい。教えてください、篠宮さん。俺、どうしたらいいんですか。自分でもおかしいと思うくらい、四六時中あなたのことばかり考えてる。どうしてかなんて、解らない……あなたの事を想うと、胸が締めつけられるようで、泣きたいくらい痛くて、苦しいんです。あなたのそばにいる時だけ、その痛みが和らぐんです。それだけは、はっきり解るんです」
絞り出すように紡がれる結城の言葉を、篠宮は畏怖にも似た思いで聞いた。たとえこのさき百年生きたとしても、こんなに深く自分を想ってくれる人は、彼をおいて他にはいないだろう。それほどまでに想われるのは恐ろしく、そして、恐ろしいほど甘美だった。
「俺、取り返しのつかない事をしました。どんなに謝っても、許されることじゃない……」
「……もう言うな。たしかに君がした行為は、正しいことではなかったのかもしれない。だが、それで死を選ぶなんて間違ってる」
強いて顔を上げ、篠宮は真正面から結城の眼を見つめた。こんなに思い詰めるまで彼を苦しめてしまったのかと思うと、後悔の念が胸に満ちた。
「昨夜のことは合意の上だった……それでいいだろう?」
有無を言わせぬ口調で言い切り、答えを待たずに言葉を続ける。もういちど彼の笑顔が見たい。篠宮の今の願いはそれだけだった。
「教育係云々についての私の発言は取り消す。営業の仕事も続ける。これからも私の部下として、力になってくれ」
「……篠宮さん……本当に、いいんですか。俺、今までどおりあなたのそばに居ていいんですか」
「ああ。不甲斐ない上司だが、よろしく頼む」
「本当に……?」
涙がくちびるの端に流れ、傷口が痛んだのか結城は眉をしかめた。
「済みません。俺やっぱり篠宮さんのこと、好きで好きでたまらない……」
手を伸ばし、結城が篠宮の背を抱き締める。篠宮は抵抗しなかった。冷えきった結城の身体に体温が戻ってくる、ただそれだけのことが不思議なほどに心を満たしていった。
「……風呂に入って身支度しろ。ひどい顔だぞ」
「はい」
結城が素直に返事をする。
篠宮は微かに笑みを浮かべた。彼が生きて帰ってくれさえすれば、昨夜のことなどすべて水に流せる。自分でも驚くくらい、穏やかな気持ちだった。
「ねえ篠宮さん。俺が寝坊したのって、あなたのせいですよ」
帰りの新幹線の中。お望みどおり二人がけの席に着くと、結城は眠そうな声でそう呟いた。
汚れた服は新しい物に替えている。傷口はまだ腫れていたが、泥を落として髪を梳くと少しは見られる顔になった。
「あなたと二人で出張に行けると思ったら、嬉しくて眠れなくて……切符の件もそうです。篠宮さんと二人で喫茶店に入るなんて、デートしてるみたいだなと思って。発注の件もそうですよ。すっかり舞い上がって、数なんて確認するどころじゃなかった……あなたのせいです、全部」
ひどい言いがかりだ。そう考えた後で、人のことは言えないと思い直した。同じようなことを自分も考えていたのだから、お互い様だ。
「ひとつ訊いていいか。どうして、睡眠薬なんて持ってたんだ」
「だって、絶対に眠れないと思ったから」
「眠れない?」
「篠宮さんと一晩同じ部屋で過ごして、何もしない自信……ないです」
それだけ言うと、結城は眠気に耐えられなくなったのか、静かに眼を閉じた。
募る恋心を隠そうともしない彼の言葉に、篠宮は溜め息をついた。まったく、正気の沙汰じゃない。
こんなにも熱い気持ちを、自分は感じたことがあるだろうか。誰かを想って、死を願うほど恋い焦がれたことがあるだろうか。それほどまでに激しい情熱を抱ける彼が恐ろしくもあり、羨ましくもあった。
昨夜の出来事を、篠宮はまるで昔のことを懐かしむかのように思い返した。怒りはない。それどころか、清々しく満ち足りた気分ですらある。
顔を上げ、篠宮は窓の外に眼を向けた。陽だまりが温かく心地好い。遠くのほうでは誰かが、大きな帽子をかぶって畑の手入れに勤しんでいる。
なだらかに続く稜線の上には雲ひとつない。その青い空を、篠宮は見たこともないほど美しいと感じた。
おかしな話だが、彼の手で強引に身体を開かれ、その火のような想いを注ぎこまれた時、自分は初めて生きていると感じた。今まで自分の周りに在った物すべてが、急に確かな色彩と熱を持って、そこに息づき始めたような気がしたのだ。
結城が篠宮の肩に頭をもたせかけてきた。
篠宮は黙って肩を貸し続けた。眠っているのだ。片想いの相手に寄りかかって甘えたところで、罪はない。
長めの前髪が流れ、篠宮の頰にかかる。シャンプーの香りが鼻をくすぐった。さらさらと触り心地の良い髪だ。
遠慮なく預けられる頭の重みを感じて、篠宮はそっと眼を伏せた。きっと愛されて、甘やかされて育ってきたのだろう。自分とは正反対だ。
結城が身動きし、毛布がわりに膝に掛けていたコートが落ちそうになった。
けっこう寝相が悪いな。苦笑とともにそんなことを思う。彼らしいといえば彼らしい。真っ直ぐで、我がままで、欲しいものは手に入れずにいられない。自由奔放な彼らしいと篠宮は思った。
腕を伸ばしてコートを引っ張り、結城を起こさないようにかけ直す。少しためらってから、篠宮はその上にそっと自分の手のひらを重ねた。
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