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倫理上の問題

 最近、自分の中で彼がどれほど大きな位置を占めているかということに気づいて、恐ろしいような気持ちになる時がある。結城と出逢う前の自分がどんな生活を送っていたのか、今となっては思い出せないほどだ。自分がこんなに恋愛にのめり込むタイプだとは思っていなかった。  恋人同士や夫婦が長続きする秘訣は、お互いを尊重し、適度な距離を保つことだという。結城とこれからも長く付き合っていきたいなら、このままでは駄目だ。スポーツや旅行が好きで活動的な結城と較べると、自分には彼と過ごす以外の楽しみがほとんどない。もっと趣味を広げて、友人でもつくるべきだろう。  電話の振動する音が強くなった気がして、ふと我に返る。はっと息を飲んで、篠宮はポケットを探った。幻覚ではない。本当に鳴っている。  篠宮は慌てて画面を操作した。電話の向こうから、待ち望んでいた彼の声が聞こえてくる。 『……あ、篠宮さん? いま話して大丈夫?』  少し鼻声ではあるが、思ったより元気そうだ。さほど心配することもなさそうだと感じ、篠宮はひとまず胸を撫で下ろした。 「あ……ああ。済まない、電話に気づくのが遅れて」 『もう。どうせ俺のことなんかすっかり忘れて、ミステリー小説でも読み耽ってたんでしょ』  茶化すように結城が笑う。電話を握る篠宮の手に力がこもった。忘れるなんてとんでもない、君のことしか考えていなかった。そう言いたい気持ちを抑えて、要点だけを尋ねる。 「どうだ? 具合は」 『うん。病院に行って、いま帰ってきたとこ。検査もしたけど、ただの風邪だって。月曜日には普通に会社に行けると思うよ』 「そうか、それは良かった」  篠宮としてはただの風邪であったことに安堵したのだが、結城はそれを、仕事に穴を開けずに済むからだと思ったらしい。すぐにおどけた笑い声を立て、彼は言葉を継いだ。 「こんな俺でも、予定外のとこで休んだら篠宮さんに迷惑かけちゃうからさ。薬飲んだら症状も治まるだろうし、その点は安心してよ』 「ああ……だが、無理はするな」  ようやくのことで篠宮はそれだけ付け加えた。普段の言動が言動なせいか、こういう時にうまく気持ちが伝わらなくてもどかしい思いをすることがある。結城のように素直に胸の内をさらけ出せればと思うが、この慎み深いところは、自分の数少ない長所のひとつだ。そう思うと、一概に変えたほうが良いともいえない。 『なんかさあ。木曜日に保育園に行ったじゃん? あそこでなんか貰ってきたんじゃないかって気もするよね。このまえ牧村さんが、お子さんのこと話してたんだけどさ。保育園とか幼稚園なんて、そりゃあもう、あらゆる菌の宝庫だって言ってたよ。宝庫って凄くない? あはは』 「いつもとは勝手が違う仕事だったからかもしれないな。あれだけ走ったから、汗をかいて冷えたんだろう。身体が疲れていると免疫力が下がって、感染するリスクも高くなる」 『そうだねー。あんなに疲れるんだったら、あの日の午後は半休取れば良かったな。帰りに篠宮さんとホテルに行ってさ。熱いシャワー浴びてベッドで温め合ったら、こんな風邪なんかひかなかったと思うんだよね』 「ばっ、馬鹿……何を言っているんだ」  恥じらいの欠片(かけら)もない結城の言い草を聞き、篠宮は顔を赤らめた。いくら半休を取ったところで、そんな事が自分にできるはずはない。保育園で子供たちと遊んだ直後に、部下とホテルに行くなんて、倫理上の問題を感じる。

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