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期間限定のケーキ
『ああもう。そんなこと言ってたら、篠宮さんに逢いたくなってきちゃったよ……ねえ篠宮さん、明日デートできない?』
結城が電話の向こうで甘えた声を出す。篠宮は毅然として言い放った。
「馬鹿。体調が悪いのに、出かけるなんてとんでもない。家で寝ていろ。私には伝染 したくないと、あんなに真剣な顔で言ってたじゃないか。あれを見て、ついに君も、押すだけではなく引くことも覚えたのかと感心したんだぞ」
「だってー。もしインフルエンザだったら、篠宮さんには絶対うつしたくないって思ったんだもん。でも、単なる風邪なら……まあいいかなって」
「よくない」
結城がいつもの彼に似ず見舞いを断わったのは、高熱の出る病気で篠宮を苦しめたくないという配慮からだったらしい。風邪だと判ったとたん判断の甘くなる彼の言葉を、篠宮は苦笑しながら遮った。
『ちぇー、駄目か……あーあ、風邪なんてひくもんじゃないな。この週末は篠宮さんと、麻布デートしようって決めてたのに』
「麻布?」
思いがけない地名を耳にして、篠宮は反射的に尋ね返した。休日に結城と出かけるのは、何か用があって買い物に行く時か、もしくは一緒に映画を観に行く時がほとんどだ。どちらも比較的近所で済んでしまうので、そちらのほうにまで足を伸ばしたことはない。
『このまえ雑誌で見たんだけどさ。麻布に「ミュゼット」っていうケーキ屋さんがあるんだよ。期間限定で「葡萄と林檎のタルトタタン」ってのがあって、それがもうめっちゃ美味しそうでさ……晴れた日はパリのカフェみたいに、表のテーブルでも食べられるんだって。この週末は天気いいって話だったから、絶対行こうと思ってたのに……あーあ、なんでこのタイミングで風邪なんかひいたんだろ。ほんとついてないよ』
甘い物が好きな結城にとって『期間限定のケーキ』というのはかなり魅力的な代物だったらしい。諦めきれない様子で涙声になっているのを聞くと、なんともいえず可哀想になった。
「来週行けばいいじゃないか。晴れるかどうかは判らないが、持ち帰りはできるだろう」
『それがさー。その期間限定って、明日までなんだよね。ぐす……食べたかったのに。葡萄と林檎のタルトタタン……』
未練を断ち切れないのか、結城が大きな溜め息をつきながら愚痴を言う。せめて慰めてやろうと口を開きかけた篠宮は、次の言葉を聞いて絶句した。
『ねえ篠宮さん、こっちに来て看病してよー。篠宮さんが添い寝してくれたら、風邪なんて一発で治るからさ。そうだ、ベッドで俺と診察ごっこしない? 注射しにきたはずの先生が、なぜか患者さんにお注射されちゃいました! みたいな。でへへ……ね、ね?』
「君のその下品な発想はどこから湧いてくるんだ……」
下品と言われて怒るかと思いきや、結城は逆にえへへと笑って喜んでいる。鼻の下を伸ばした顔が眼に見えるようだ。
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