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手書きの楽譜

 現金は小銭だけで、札は入っていない。やはりひったくりの仕業かと、篠宮はさらに確信を強めた。キャッシュレスの進みつつある世の中だが、こんな高級そうな鞄を持った男が、財布の中に札の一枚も入れていないとは考えにくい。おそらく犯人は鞄を盗んだ後、手っ取り早く札だけを抜いて捨てていったのだろう。  鞄のポケットまで探ってみたものの、結局のところ身分証明になる物は入っていなかった。  財布の他には、何枚かの紙を挟んだクリアファイルがあるだけだ。すべてを取り出すことはせず、篠宮はいちばん上の一枚だけに眼を走らせた。フリーハンドの五線譜に、音符がびっしりと書かれている。手書きの楽譜のようだった。この鞄の持ち主は、音楽を嗜むのだろうか。  仕方ない、警察に届けよう。最終的に篠宮はそう判断した。どこかに電話番号でも書いてあれば直接連絡することができるが、中をざっと見る限り、自分一人の力でこの鞄を持ち主に返すのは不可能のようだ。  拾った革鞄を手に、篠宮はもと来た道を戻り始めた。たしか駅の近くに交番があったはずだ。とりあえずこれを持って交番に行き、この近辺でひったくりの被害が出ていないか訊いてみよう。指紋は付いていなくても、髪の毛などが紛れ込んでいれば、犯人逮捕の手がかりになるかもしれない。  交番の近くまで行き、篠宮は少し離れた場所から中を覗きこんだ。  どうやら先客がいるようだ。制服姿の警官が、ベージュ色の麻のジャケットを羽織った男性と話をしている。なにやら取り込み中の様子だ。 「あ……」  警官が篠宮の姿を認め、何か用事でしょうかと眼で尋ねた。  その視線につられ、話していた男性も振り返って篠宮を見る。たちまちのうちに彼の眼が、篠宮の持っている鞄に釘づけになった。 「あっ、あれです! あの鞄!」  あまりの速さに驚く暇もなく、男性は篠宮の持つ鞄めがけて走り寄ってきた。奪い取る勢いで篠宮から鞄を貰い受け、すぐに口を開けて中身を確認し始める。音符の書かれた紙を見ると、その顔が安堵したようにふっと緩んだ。 「あ、タチバナさん……ちょっとお待ちください」  かなり遅れて、警官が間抜けな声を出しながら男性を引き止める。机の上の書類をひっつかみ、警官は慌てて篠宮たちのそばまで駆け寄ってきた。 「済みません、確認させていただきます。茶色の革鞄、中身は財布と楽譜、中にあったカード類……タチバナさん、たしかにあなたの物に間違いないですね」 「ええ、間違いありません。現金だけは抜かれているようですね」  警官の声に、タチバナと呼ばれた男性が返事をする。

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