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証拠品
「タチバナさん。せっかく見つかったところ申し訳ないのですが、もし可能でしたら、その鞄は証拠品としてお預かりさせていただけないでしょうか。あなたの鞄を盗んだ犯人は、おそらく、最近この近辺で発生しているひったくり犯と同一人物だと思うんです。詳しく調べれば、なにか証拠が残っているかもしれません」
「……やはり、ひったくりの仕業だったのですか」
篠宮は思わず口をはさんだ。被害に遭った人には申し訳ないが、自分の予想が当たっていたことに、なんとなく得意げな気持ちになる。警官がうなずきながら答えた。
「そうなんですよ。先月から、いわゆる高級住宅街と呼ばれる場所で多発しているんです。こんなに綺麗で上品な街並みなのに、嘆かわしい話ですよ。で……いかがでしょうか、タチバナさん。このお鞄はあなたの物であると同時に、犯人の遺留品ということにもなります。ひったくり犯逮捕のためにも、ぜひともご協力いただきたいのですが」
警官が、再び被害者の男性に視線を戻す。立ち去るタイミングを逃したまま、篠宮は改めてその男性を見つめた。
歳は三十代の前半くらいだろうか。身だしなみの整った、品があっていかにも育ちの良さそうな男性だ。身長は篠宮よりも少し低い。百七十七、八といったところか。細面で整った、柔和な顔立ちをしている。通った鼻筋に眼鏡がよく似合っていて、知的な印象だ。
「鞄のほうは構いませんが、この楽譜だけは持ち帰らせてください。後は、証拠品ということで調べていただいて大丈夫です。財布の中にあるカード類も、すべて止めてしまいましたし」
「楽譜ですか……もしかしたらそこに指紋が付いている可能性もあるのですが。こちらでコピーいたしますので、コピーのほうをお持ち帰りいただくわけにはいきませんか?」
警官はさらに食い下がったが、男性はきっぱりと首を横に振った。
「それはできません。コピーはしないでくれというのが、この楽譜の持ち主とのお約束なので」
「そうですか……そういうことでしたら、仕方ありませんね。あくまでも任意の提出ということになりますので、無理にお願いはいたしません。楽譜はお持ち帰りいただいて結構です。それと、その……鞄を拾ってくださったかた。差し支えなければ、少しお話を伺えませんか。どこに落ちていたのかが判れば、犯人の足取りをつかむ手がかりになります」
「ええ……そうですね」
篠宮は素直にうなずいた。盗まれた鞄を持っていたのだから、場合によっては自分が犯人と思われてもおかしくない。篠宮が疑われなかったのは、盗んだ当人がわざわざ証拠品を持って交番に来るはずはないという推測と、犯人は身長百六十センチ前後の小男であるという各所での証言のためだった。
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