295 / 396

ピアノを弾く手

 警官に言われるまま書類に名前を書き、いくつかの質問に答える。晴れて無罪放免となったところで、タチバナと呼ばれていた男性が横からにこやかに微笑みかけた。 「拾っていただいてありがとうございます。もう駄目だと諦めていたのに、まさか見つかるなんて……感謝の言葉もありません」 「大切な楽譜なんですね」  当たり障りのない答えを返しながら、篠宮は楽譜を抱える彼の手許にそっと眼を向けた。楽譜を見ても何がなにやらさっぱり解らないが、それを持つ手が顔に似合わず骨太で、小指までしっかりと筋肉が付いているのは見てとれる。ピアノを弾く手だろうか、と直感的に思った。 「ええ。この楽譜は、私がある修道院にお百度を踏んで、ようやく書き写させていただいた物なんです。もしこれが無くなってしまったら、今までの努力もすべて無になるところでした」  この楽譜さえ手許に戻ってくれば、現金を盗まれたなんて大したことじゃありませんよ。そう言って彼は嬉しそうに微笑んだ。結城のような華やかさはないが、落ち着いて品のある、思慮深さを感じさせる笑みだ。 「申し遅れました。私、(たちばな)始と申します。あなたは、ええと……篠宮正弓さん、とおっしゃるのですね」  机の上にある書類に眼を走らせ、彼はそこに書かれた篠宮の名前を素早く読み取った。 「篠宮さん。昼食はこれからですよね? よろしければ、お礼をさせてください。この近くに、私の知ってる店があるんです。せめて、そこでお食事でも」  つい先ほど知り合ったばかりの、この橘という男の突然の申し出に、篠宮は驚いて当惑した。  たしかに、お礼をしたいというその気持ちも分からなくはない。自分が拾ったあの楽譜は、彼にとって金には変えられないほど重要な物だったのだろう。だがいくらなんでも、財布を盗まれた被害者に昼飯を奢ってもらうなんて承知できるはずもない。 「いや、お礼など……当然のことをしたまでです。それに、この後はちょっとした用事があって」  答えながら、篠宮は腕時計を見た。十時の開店に間に合うように出たはずなのに、思わぬ拾い物のごたごたに巻き込まれたせいで、時刻はもう十一時半になっている。間に合うかは分からないが、とにかく店まで行ってみなければならない。 「急ぎのご用事ですか?」  橘が残念そうに篠宮の顔を覗きこむ。悪気はないだけに、無下に断るわけにもいかない。仕方なく、篠宮は手短かに事情を説明することにした。 「この近くに、ミュゼットという洋菓子店があるんです。そこの限定のタルト・タタンを買ってきてくれと、友人に頼まれていて」  友人でもなければ頼まれたわけでもなかったが、篠宮は話を簡略化するためにあえてそのように説明した。

ともだちにシェアしよう!