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顔なじみ

 今すぐ買い物に行きたいのだと伝えれば、彼も納得して自分を解放してくれるだろう。そう確信して返事を待つ。だが橘の答えは、篠宮の予想とはかけ離れたものだった。 「ああ、あの葡萄と林檎のタルトタタンですか? それでしたら早く行かないと、もうそろそろ売り切れる頃ですよ。いくつお入り用ですか?」  上着の内ポケットから携帯電話を出し、橘が篠宮に問いかける。不意を突かれ、篠宮は珍しくしどろもどろになりながら答えた。 「え? あ、ええと……二つですが」 「二つですね。分かりました」  それだけ聞くと、橘は一秒でも待つのが惜しいといった様子で、唐突に電話を掛け始めた。 「……ああ、坂口さんですか? 『ル・プレジール』の橘です。お忙しい時間にお電話して申し訳ありません。実は以前ご馳走になった、あの限定のタルト・タタンが欲しいんです。たしか今日で終わりでしたよね。まだ残っていますか? ええ……二個です」  どうやら、当の洋菓子店に電話をしているらしい。その話を傍らで聞き流しながら、篠宮は店のホームページに記載されていた内容を思い起こした。たしか、限定品の予約はできなかったはずだ。在庫だけは確認できても、店に着くまでに売り切れてしまうかもしれない。 「ああ、はい……大丈夫ですか。ありがとうございます」  大丈夫とはどういうことなのか。不思議に思って首を傾げる間に、橘はさっさと電話を切って篠宮のほうに向き直った。 「はい。限定のタルト・タタン二個、無事に確保できましたよ。橘の名前を出せばすぐに分かるようにしてありますので、後でゆっくり受け取りに行ってください。では篠宮さん。用事も済んだことですし、これで安心して、私との昼食にお付き合いいただけますよね?」 「ですが……予約はできないはずでは?」  あまりの急展開に、篠宮は面食らった。予約不可なはずの菓子をこうも簡単に確保してしまうなんて、この橘という男は、いったいどんな裏技を使ったのか。 「まあ普通でしたら、予約はできないという事になっていますよね。実を言うとミュゼットさんは、私がこれからご案内しようと思っているカフェの二軒隣にあるんです。食事のメニューにはかなり力を入れている店で、ミュゼットのオーナーやパティシエのかたも、昼休みや帰り際にそこでよくお食事されているんですよ。私も甘い物が好きなので、ミュゼットのケーキはよく買いに行っているんです。お互いに何度も行き来するうちに、すっかり顔なじみになってしまいまして。ここだけの話ですが、限定のケーキも内緒で融通してもらえるんですよ」 「そうなんですか……」  呆気にとられ、篠宮はようやくのことでそれだけ呟いた。迷惑とまでは言わないが、温和で優しそうな顔立ちに似ず、なかなかに強引な男性だ。それとも、決断が早く行動力もある紳士というべきだろうか。買い物を口実に昼食の誘いを辞退するつもりだったのに、今となっては断る理由が無くなってしまった。

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