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いつものお席

「では、今から行きましょう。タルト・タタンは、お帰りの時に受け取ればいいと思いますよ」 「はあ……」  颯爽とエスコートしようとする橘を見て、篠宮は曖昧に返事をした。結城とは、特に約束をしていたわけではない。いきなり行って驚かせようと思っていたのだ。ここで昼食を済ませ、午後に寄ったとしても別に不都合はない。 「……分かりました。せっかくのご厚意ですから、素直にお受けいたします」  自分の代わりに、ケーキの手配までしてもらったのだ。これ以上頑なに断るのもかえって失礼だろう。そう考え直した篠宮は、簡単に礼を述べて橘の後についていった。  橘が案内した店は、単なるカフェというよりは、高級なホテルのロビーといった趣きだった。 『le Plaisir』と書かれた看板の下を通り、篠宮は店内に足を踏み入れた。天井が非常に高く、明るくて開放的な空間の中に、花を飾ったテーブルと白い椅子が配置してある。中央には階段のついた高さ五十センチほどの演壇があり、そこには大きなグランドピアノがチェーンに囲まれて置いてあった。 「あ、橘さん。いつものお席でよろしいですか?」  胸許にくるみボタンの並んだ、洒落た制服を着た女性が、笑顔と共に篠宮たちを出迎える。『いつもの』などと言われるところをみると、この橘という男は、相当頻繁にこの店を訪れているようだ。 「ええ。空いていれば、いつもの場所でお願いします」  鷹揚にうなずき、橘は店員の案内に従って歩き始めた。  橘の後ろについて店の奥へと向かいながら、篠宮はそっと辺りを見回した。満席とまではいかないが、そこそこに客は入っている。洗練された店の雰囲気を壊さないためには、このくらいでちょうどいいのかもしれない。  どこかの名家の出であろうと思われる老夫婦や、着物に羽織をまとった上品な紳士が、静かに昼食を楽しんでいるのが見える。テーブルに載った皿には、薄切りの肉や季節の野菜が美しく盛り付けられており、いかにも高価そうだ。  自分のような会社員が日常的に行くには、ちょっと高級すぎる店かもしれない。そんな思いを抱きながら、篠宮はひとまず勧められた席へ腰かけた。 「このお店は、夜はダイニングバーになるんですよ。篠宮さんは、お酒はお飲みになりますか?」 「ええ、割と好きなほうです」 「それはいいですね。私は酒はからっきしなんですよ。夜になると、薄闇の中にシャンデリアが灯ってとても綺麗なんです。パリの香り漂う素敵なバーなのに、私のような下戸では雰囲気しか楽しめないのが残念ですよ」  バーと聞いて、篠宮はこの店に少し興味を持った。中央にあるあのピアノでは、どんな曲が奏でられるのだろうか。ジャズやシャンソンもいいが、クラシックの流れるバーというのも乙なものだ。こんど結城と二人で、夜の時間に来てみるのも良いかもしれない。

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