297 / 396
いつものお席
「では、今から行きましょう。タルト・タタンは、お帰りの時に受け取ればいいと思いますよ」
「はあ……」
颯爽とエスコートしようとする橘を見て、篠宮は曖昧に返事をした。結城とは、特に約束をしていたわけではない。いきなり行って驚かせようと思っていたのだ。ここで昼食を済ませ、午後に寄ったとしても別に不都合はない。
「……分かりました。せっかくのご厚意ですから、素直にお受けいたします」
自分の代わりに、ケーキの手配までしてもらったのだ。これ以上頑なに断るのもかえって失礼だろう。そう考え直した篠宮は、簡単に礼を述べて橘の後についていった。
橘が案内した店は、単なるカフェというよりは、高級なホテルのロビーといった趣きだった。
『le Plaisir』と書かれた看板の下を通り、篠宮は店内に足を踏み入れた。天井が非常に高く、明るくて開放的な空間の中に、花を飾ったテーブルと白い椅子が配置してある。中央には階段のついた高さ五十センチほどの演壇があり、そこには大きなグランドピアノがチェーンに囲まれて置いてあった。
「あ、橘さん。いつものお席でよろしいですか?」
胸許にくるみボタンの並んだ、洒落た制服を着た女性が、笑顔と共に篠宮たちを出迎える。『いつもの』などと言われるところをみると、この橘という男は、相当頻繁にこの店を訪れているようだ。
「ええ。空いていれば、いつもの場所でお願いします」
鷹揚にうなずき、橘は店員の案内に従って歩き始めた。
橘の後ろについて店の奥へと向かいながら、篠宮はそっと辺りを見回した。満席とまではいかないが、そこそこに客は入っている。洗練された店の雰囲気を壊さないためには、このくらいでちょうどいいのかもしれない。
どこかの名家の出であろうと思われる老夫婦や、着物に羽織をまとった上品な紳士が、静かに昼食を楽しんでいるのが見える。テーブルに載った皿には、薄切りの肉や季節の野菜が美しく盛り付けられており、いかにも高価そうだ。
自分のような会社員が日常的に行くには、ちょっと高級すぎる店かもしれない。そんな思いを抱きながら、篠宮はひとまず勧められた席へ腰かけた。
「このお店は、夜はダイニングバーになるんですよ。篠宮さんは、お酒はお飲みになりますか?」
「ええ、割と好きなほうです」
「それはいいですね。私は酒はからっきしなんですよ。夜になると、薄闇の中にシャンデリアが灯ってとても綺麗なんです。パリの香り漂う素敵なバーなのに、私のような下戸では雰囲気しか楽しめないのが残念ですよ」
バーと聞いて、篠宮はこの店に少し興味を持った。中央にあるあのピアノでは、どんな曲が奏でられるのだろうか。ジャズやシャンソンもいいが、クラシックの流れるバーというのも乙なものだ。こんど結城と二人で、夜の時間に来てみるのも良いかもしれない。
ともだちにシェアしよう!