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丁重なサービス
「橘さま。いつもお越しくださりありがとうございます。なにかお気付きの点がありましたら、遠慮なくお申し付けくださいませ」
黒のスーツに身を包んだ年配の男性が、わざわざ篠宮たちのテーブルまで足を運んで挨拶に来た。
名札に刻まれた名前の上には『総支配人』とある。間違いなく、この店で最高の地位にある人物だ。
「いやだなあ河野さん。そんな堅苦しい挨拶はよしてくださいよ」
黒服の男性の、やけに畏 まった態度とは正反対に、橘が気楽な口調で返事をする。この二人はどういった関係なのかと、篠宮は不思議に感じた。いくら丁重なサービスを売りにしているとしても、支配人がいちいち顔を出して挨拶を述べるなんて、単なる客への態度にしてはずいぶんと慇懃だ。
「とりあえず、今日のお勧めをお願いしましょうか。篠宮さん、何かアレルギーはありますか? 苦手な物があったら、遠慮なく言ってくださいね」
「いえ……特にこれといって、苦手な物はありません」
「そうですか、それは良かった。では河野さん。いつものように何皿か、適当に見繕っていただけますか?」
「かしこまりました」
支配人が真面目くさった顔で頭を下げる。眼鏡の縁に指を当て、橘は決まり悪そうに微笑んだ。
「ああ、でも。お値段はそこそこに抑えておいてくださいね。実は、クレジットカードをホテルに忘れてきてしまったんです。このかたをおもてなししなければいけないのに、支払いの段になってお金が足りないとなると格好がつきません、ははは」
瞳に悪戯っぽい光を浮かべ、橘は篠宮にそっと目配せした。奢るといっても大した金額ではないから、遠慮しなくてもいいという意味だろう。鞄を盗まれるという大事件を、あっさり『カードを忘れた』と言い換えて説明を省くあたりも、なかなかにスマートだ。
「とんでもない。橘さまから代金などいただけません。料金のことはお気になさらず、ごゆっくりなさってください」
「そういう訳にもいかないんですけどねえ……まあ今日のところは、お言葉に甘えさせていただきますよ。次はきちんと払わせてくださいね。ああ、それと。ピアノは空いていますか?」
「ええ。どうぞお好きなだけ弾いていってください。他のお客様も喜ばれるでしょう」
敬意のこもったお辞儀を残し、支配人が去っていく。
篠宮は、橘の持ち物だという高価そうな鞄や財布のことを思い出した。当たり前のように高級店に出入りし、席につけば支配人から挨拶を受け、おまけに代金は不要だという。この橘という男は何者なのか。彼の素性が気になった篠宮は、慎重に言葉を選びながら探りを入れた。
「このお店にはよくいらっしゃるのですか」
「ええ。あの人は、元々うちで執事として働いていたんですよ。父が亡くなった後、私一人で偉そうに使用人など抱えるのもどうかと思いまして、暇を出したんです。彼が店を出したいと言ったので、私がこの場所を選んで、土地と建物の建設費用を用立てしたんですよ。そのせいか、いまだに恩を感じているみたいで」
あははと声を立てて、橘が朗らかに笑う。だが篠宮のほうは、その話を笑い飛ばす気にはなれなかった。
一等地といって差し支えないこの場所に、これだけの建物を建設する。いったいいくらかかるのか見当もつかない。執事だの使用人だの、自分にとってはまったく別世界の話だ。
どう答えて良いか判らず篠宮が黙りこんでいると、橘はさらに笑って話を補足した。
「もちろん、毎月決まった額は返済してもらっています。単に無利子無担保、無期限でお貸ししただけですよ。たったそれだけのことなのに、律儀な人ですよね」
「はあ……」
こらえきれずに、篠宮は呆れたような溜め息を洩らした。『たったそれだけのこと』などと簡単に流されたが、それだけの金額を普通に借りたら、利息だけでも相当な値になるはずだ。これではたしかに、元使用人だというあの男性が、橘に対して頭が上がらないのも無理はない。
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