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舟歌
「まあそんなことより。今はあなたに、楽譜を拾っていただいた感謝の気持ちをお伝えするべきですよね。篠宮さん、ちょっとばかり席を外して、あのピアノの前に座ってきても良いでしょうか? ここのピアノはとても響きが綺麗で、よく弾かせていただいているんです。お礼として一曲披露しますよ。お好きな曲はありますか?」
「え……あ、はい」
いきなり尋ねられ、篠宮は持ち前の真面目さから真剣に思案した。結城はロックやポップスが好きでよく聴いているが、自分には音楽鑑賞の趣味はあまりない。いちばん馴染みがあるとすれば、遥か昔に学校の授業で聞いたクラシック曲くらいだ。
「どんな曲でも良いのでしょうか」
「ええ、大丈夫です。少しアレンジは入るかもしれませんが、ほぼ原曲に近い感じには弾けると思いますよ」
「では、チャイコフスキーの『舟歌』を」
思いつきでなんとなく頼んでしまってから、九月の今には季節外れの曲ではないかと篠宮は思った。どことなく仄暗い、秋の切なさを感じさせるメロディーではあるが、四季の中の舟歌はたしか六月の曲だ。
「それなら得意な曲です。私も好きですよ」
柔らかな笑みを浮かべ、橘は席を立って中央の演壇まで歩を進めた。ピアノの前までたどりつくと、慣れた所作で椅子を引いて腰掛ける。長い指が鍵盤の上を滑り、愁いを帯びた美しい旋律が流れ始めた。
軽やかに動く手許を見ながら、篠宮は、本当に彼は今この瞬間にピアノを弾いているのかと訝しんだ。指の運びが滑らかすぎて、とても打鍵しているように見えない。まるで羽ぼうきでそっと鍵盤の上を撫でている、ただそれだけのようだ。
最初の驚きが去ると、ようやくのことで篠宮にも、演奏に耳を傾けるだけの余裕が出てきた。自分のために弾いてくれているのだから、きちんと聴かなければ失礼だ。そう思って一心に耳を澄ます。心地好い調べが、正午の光に満ちた空間を華やかに彩った。
余韻を残した和音と共に演奏が終わり、店内のあちこちから拍手の音が響く。立ち上がって優雅に一礼し、橘は再びテーブルまで戻ってきた。
「素晴らしい演奏ですね」
「ありがとうございます。お気に召していただけたようで何よりです」
はにかんだように微笑み、橘は椅子に腰を下ろした。タイミング良く飲み物が運ばれ、アラカルトが何皿かテーブルに並ぶ。
「小さい頃は病弱だったもので、家にあったピアノを弾くくらいしか楽しみがなくて。ピアニストを目指していたんですが、練習のしすぎで指を傷めてしまったんです。程なく治りはしましたが……もともと自分の才能に限界を感じていたところだったので、ピアニストの夢はきっぱり諦めました。今では、こうして趣味で少し弾く程度です」
軽く乾杯をして、篠宮はシャンパンのように泡の立つグラスを口に運んだ。梅のシロップを炭酸で割った物らしい。アルコール好きな篠宮には若干物足りなかったが、洒落たカフェの雰囲気はそれなりに楽しめた。
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