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ケーキを持って
「限界だなんて……私には、充分な才能に恵まれていらっしゃるように見えますが」
「いえいえ。本当の天才というのは、こんなものではありませんよ。私が天才だったら、この楽譜もひとめ見ただけで暗譜して、すぐに弾けるようになっていたでしょうね。でもそんな凡庸な私でも、未知の曲を見るとやはり気持ちが高揚してしまう……芸術の女神さまというのは、本当に意地が悪いですね。一度その魅力に取り憑かれると、簡単には離れられない」
楽譜の入ったクリアファイルを手に持ち、橘はもういちど中身を確認するようにぱらぱらとめくった。
一字一句漏らさず丁寧に書き写したことが、その几帳面そうな筆跡から読み取れる。タイトルの部分にはアルファベットらしき物が並んでいたが、なんと書いてあるのかは解らなかった。
「なんという曲なのでしょうか」
ふと好奇心に駆られ、篠宮はそう尋ねてみた。この楽譜を拾ったせいで、事情聴取だのお礼だの、かれこれ二時間も拘束されているのだ。そのくらい訊く権利はある。体 よくはぐらかされるかと思ったが、橘は快く即答してくれた。
「ラテン語には詳しくないのですが、聞いたところによると『奇蹟のような出逢い』……そんな感じの意味だとうかがっています」
奇蹟のような出逢い。その言葉を聞いて、すぐに結城の顔が頭に浮かんだ。
彼のことを考えただけで、胸の奥がじわりと熱くなる。この食事が終わったら、ケーキを持って彼に逢いに行くのだ。そう思うと心が弾んだ。
「どんな曲なんでしょうか。聴いてみたいですね」
「今すぐ弾いて差し上げたいのですが、恩人であるあなたに、初見の拙い演奏をお聞かせするのは気が引けますね。少し練習しておきますので、どうぞまたこのカフェに来てください。今度お会いした時にご披露しますよ。私の自宅は軽井沢にあるんですが、しばらくはこっちで気ままなホテル暮らしを楽しみたいと思っているんです。個展の準備もありますし」
「個展……?」
なんの脈絡もなくいきなり耳に入った言葉を、篠宮は鸚鵡返しに聞き返した。
「ああ、まだお話ししていませんでしたね。もう昔の話になりますが、指を傷めた時にピアノを弾くことができなかったので、手すさびに絵を描き始めたんです。いま思うと、分野は違っても芸術の世界に触れていたいという気持ちがあったのかもしれませんね。始めてみると、思いのほか自分に合っていたようで、それからずっと続けているんです。どの絵も思い入れがあるので売り物にはしていませんが、一部ではそこそこ高い評価をいただいているんですよ」
「そうなんですか」
夢のように典雅なその暮らしぶりに、篠宮は感嘆の声を洩らした。おっとりしたお坊っちゃん育ちの男性だという第一印象は、あながち間違いでもなかったらしい。そんな話を聞いてしまったせいか、眼の前の彼が、さらに浮世離れした芸術肌の人物に見えてくる。
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