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結婚できない事情
「他にお仕事はなさっていないのですか」
「仕事というほどの仕事はしていません。もっぱら、ピアノを弾いたり絵を描くだけの日々ですよ。父の遺した事業……ああ、もう今は完全に人任せになっているのですが、そちらと不動産の収入だけで充分やっていけますので」
金持ちというのは本当に存在するのだと、篠宮は改めて思い知った。篠宮の家もそれなりに裕福ではあったが、それとはまるで格が違う。
「優雅なお話ですね」
「とんでもない。三十四にもなって、ニートですよ。自慢できる話じゃありません、ははは」
橘は明るい声で笑った。どこか旧家の御曹司だと思われるのに、驕り高ぶったところがひとつもなく、穏やかで謙虚だ。その控えめなところに篠宮は好感を持った。
生まれも境遇もなにもかも違うが、もっと深い本質的な部分で、橘はどこか自分と似通ったところがあるように思える。自分に歳の離れた兄がいたら、きっとこんな感じだろう。ふとそんな考えが頭に浮かんだ。
「篠宮さんは、もうご結婚されているんですね」
慣れた手つきで鴨肉のパテを取り分けながら、橘はちらりと篠宮の薬指に眼を向けた。
「いえ……これはただのペアリングです」
結城から贈られた指輪を、篠宮は感慨深い思いで見つめた。
恋人同士でペアのアクセサリーなど馬鹿らしい。結城と出逢う前はそう思っていたのに、今では指輪をつけることがすっかり習慣づいて、会社で外すのさえ忘れそうになる始末だ。恋の力とは恐ろしいと、篠宮は信じられない思いで自らの変化を振り返った。
「そうなんですか。でもそうして肌身離さず着けていらっしゃるということは、もうご結婚も近いのでしょう?」
橘がからかうような口調で尋ねる。ご多分に漏れず、彼も他人の恋の話は気になるたちらしい。篠宮は首を横に振った。
「いいえ。いつかは結婚したいと思っていますが……なかなか、そうもいかない事情があって」
いつかは結婚したい。その言葉が何気なく口をついて出たことに、篠宮は自分自身で驚愕した。
結婚などしなくても幸せだと、自分はそう思っていたはずだ。口を閉ざしたまま、篠宮は心の中でそっと自らの発言を修正した。結婚にはメリットもあれば、デメリットもある。今のところ、篠宮にはデメリットのほうが大きいとしか思えなかった。
二人の関係が公けになれば、そこに様々なしがらみが生まれる。その時になって、やはり秘めておけばよかったと思っても遅い。後悔するくらいなら、このまま誰にも言わずにいたほうが遥かにましだ。毎日のように繰り返される熱烈なプロポーズを、頑なに断り続けてきたのはそのためだった。
「結婚できない事情……そんな風に言われると、ちょっと気になっちゃいますね。相手は人妻ですか? 恋の障害の定番といえば、親の反対か借金か……うーん、あなたならそのくらい、努力してどうにでも解決できそうですよね。親子くらいに歳が離れてるとか? それとも、もしかして……男性だったりして」
思いがけず真相を言い当てられ、篠宮は椅子から飛び上がった。橘がしてやったりという顔で相好を崩す。
「あ。ひょっとして、最後のが当たりでした?」
「いっ、いえ……」
慌てて誤魔化そうとするが、橘の眼はすでに真実を悟ったように篠宮を見据えている。今から言い訳をしたところで、彼の確信を覆すことはできないだろう。
「ど、どうして……男性だなんて」
「あなたを見ていたらなんとなく、それも有りかと思っただけですよ。あなたは、同性から見ても魅力的ですからね」
篠宮さんに逢うまで、男になんか興味なかった。以前に結城に言われた言葉を思い出し、篠宮は居たたまれずに眼をそらした。
「魅力だなんて……ありません、そんなもの」
「ありますよ。たぶん、見た目とのギャップのせいでしょうね。背が高くて男らしいのに、ちょっとからかうとすぐにうろたえて赤くなるあたり……なんだか、もっと困らせてしまいたくなります。可愛いですよ」
「かっ、可愛いって」
「ほら、そこですよ」
意地悪く笑ってはみたものの、そこまで篠宮を追い詰める気はなかったらしい。このくらいで勘弁してやるとばかりに、橘はわざとらしく眼をそむけてグラスを口に運んだ。
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