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いい歳をして

「橘さんは、ご結婚はされていないんですか」  苦し紛れに、篠宮は橘のほうに話の矛先を向けた。よく発達した厚みのある指の根元には、指輪は嵌まっていない。  独り身なのか、それともピアノを弾くためなのか。指輪のない理由を考える間もなく、橘はあっさりと答えを口にした。 「ええ、まだ独身なんですよ。そろそろ身を固めなければと思っているのですが、こればっかりは一人ではどうしようもありませんからね」 「そうなんですか。それは意外ですね」  財産も教養もある紳士が未婚であるという事実に、篠宮は驚きの声を上げた。橘は決して、結婚相手として敬遠されるようなタイプではない。見るからに優しそうな整った面差しをしているし、身長だって高いほうだ。そのうえ資産家となれば、女性に不自由することなどないように思える。 「出会いが無いわけではなかったんですよ。結婚を考えた人も何人かはいたんです。でもあの人たちはきっと、最終的には私のお金が目当てだったんでしょうね。本当は借金まみれなんですと嘘をついて試すと、みんな私から離れていったんです。そのうち、誰を見ても疑心暗鬼に陥るようになってしまって」  橘は自嘲気味に口許をゆがめた。金持ちには金持ちなりの悩みがあるらしい。 「金のためだけに男に近づくような、そんな女性と結婚せずに済んで良かったじゃありませんか。焦らなくても、本当のあなたの良さを分かってくれる人がきっと現れますよ」 「ありがとうございます。そう言っていただけると、慰めでも嬉しいですよ」  過去を通り過ぎていった女性たちを思い出したのか、橘がテーブルの上の花瓶を見つめながら溜め息をつく。しばらくすると、彼は何かを決意したように顔を上げた。 「あの、篠宮さん。いい歳をしてこんな事を言うのも気恥ずかしいのですが、もしよろしければ、私と友達になっていただけませんか」 「と……友達、ですか」  突然の申し出に、篠宮は度肝を抜かれた。こんな風に面と向かって友達になりたいなどと言われたのは、生まれて初めてだ。  篠宮が戸惑っていると、橘は言いにくそうに声をひそめた。 「お恥ずかしい話なんですが、実は私には、友人と呼べるような人が居ないんです。ピアノもどちらかというとソロが得意で、アンサンブルは苦手だったんですよ。あなたなら……なんとなくですが、趣味も合いそうだと思って」  趣味が合いそう。そう言われて、篠宮は自分もそんな気がしていたことに初めて思い至った。

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