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褒めて褒めて
地下鉄の駅を抜けて地上に降り立ち、今ではすっかり通い慣れた道を歩く。
エントランスの前にある三段の階段を登り、いつ来ても開けっ放しの、なんのために付いているのか解らないガラスの扉をくぐる。壁に並んだ郵便受けの前を通り、エレベーターのボタンを押す。
目的の階で降り、通路を抜けていちばん端の角部屋まで行く。ドアの前に立ち、篠宮は気を落ち着けるため深く息をついた。
片手に持ったケーキが傾いていないか、もういちど注意深く確認する。合鍵を取り出そうとする手が、ためらうように一瞬だけ止まった。
約束もしていないのに、こんな風に押しかけて迷惑ではないだろうか。今さらのように否定的な思いが芽生え、篠宮は扉の前でしばらく逡巡した。具合が悪くて寝ている時に、見舞いに来られてもかえって困るだろう。そんな後ろ向きな考えが次々と浮かび、今すぐ回れ右して帰りたいような気持ちになってくる。
もし。玄関に女物の靴が置いてあったら、自分はどう対処するべきなのだろうか。ついにそんな妄想まで湧いてきて、篠宮は自分で自分の心を持て余した。婚約者の眼を盗んで、部屋に別の相手を引っ張り込む……ドラマや小説ではよくある展開だ。
「……っ」
舌打ちめいた声を洩らし、財布から鍵を取り出して鍵穴に差し込む。覚悟を決め、篠宮はかちりと音がするまで手首を回した。
ドアノブをひねり、恐る恐るそっと中を覗きこむ。玄関には結城が休日に履くサンダルが置いてあるだけで、もちろん女物の靴などあるはずもなかった。
「あ、篠宮さん!」
台所に立っていた結城が、篠宮の姿を見て顔を輝かせた。
「起きていて大丈夫なのか」
挨拶をすることも忘れ、篠宮は開口一番にそう声をかけた。
「大丈夫だよ。もう熱も下がったし、咳も出ないし。でもちゃんと静養してないと篠宮さんに怒られると思って、昼飯買いにコンビニ行く以外は家でおとなしくしてたんだよ。ねえー、褒めて褒めて」
大急ぎで駆け寄るやいなや、結城が身を低めて頭を差し出す。仕方なく、篠宮は手を伸ばして結城の髪をくしゃくしゃとかき回した。洗って乾かしたばかりらしい、さらさらとした髪の感触が心地よい。
「いきなり来たりして、迷惑じゃなかったか」
「なんで迷惑なのさ? 篠宮さんが来てくれて嬉しいー。もう暇で暇で、病気になるかと思ってたくらいなんだから」
好意と愛情を満面にたたえ、結城が篠宮の顔を覗きこむ。人懐っこく甘えるようなその瞳を見て、篠宮の凝り固まっていた心もたちまちのうちに解けていった。自分は何を心配していたのだろうか。いつ訪れようが、結城が笑顔で出迎えてくれることは分かりきっていたはずだ。
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