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贅沢な悩み

「それなら良いんだが。もしかしたら、他に誰か来ているんじゃないかと思って……考えてしまった」 「へ? 誰かって誰?」 「いや……ドラマでよくある展開だろう。サプライズでいきなり恋人の部屋を訪れたら、相手は部屋に女性を連れ込んでいて、一気に修羅場……というやつだ」 「んなわけないでしょ! 俺はいつでも篠宮さんひとすじぃー。えへへ」  何を馬鹿なことを言わんばかりに、結城が篠宮に頰をすり寄せて口接ける。  その抱擁に身を任せながら、篠宮は密かに自らの正気を疑った。たとえ一瞬であっても、こんなに一途な恋人が浮気をしていると考えるなんてどうかしている。携帯電話が鳴っているような幻覚を感じたことといい、我ながら心配のしすぎかもしれない。  人間、あまりにも幸福すぎるとかえって不安になるという。幸福であることに慣れていない、自分のような人間は余計にそう思ってしまうのだろうか。大好きな恋人から愛され、幸せすぎて不安だなんて、実に贅沢な悩みだ。他人が聞いたら鼻で嗤うに違いない。 「そんなにくっつくな……ケーキが崩れる」  結城の肩を手のひらで押さえ、篠宮はもう一方の手に持っていた箱をなんとか水平に保った。 「え、ケーキ?」  そこで初めて箱の存在に気づいたかのように、結城が首を伸ばして篠宮の荷物を覗きこむ。半透明のビニール袋の中には、ロココ調の花柄が印刷された持ち手付きの箱が入っていた。 「そういえば、何なのこのお洒落な箱。みゅぜっと……? え。もしかして」 「ああ。君が食べたいと言っていたから、麻布まで行って買ってきたんだ。どうだ。ご所望だったんだろう、葡萄と林檎のタルトタタン」  得意げな笑みを浮かべ、篠宮は持っていた袋を差し出した。箱の上部には『生ものですのでお早めにお召し上がりください』と書かれたシールが貼ってある。 「ほんとに? わざわざ買ってきてくれたの? ありがとう、篠宮さん大好き!」  感涙にむせぶという表現がぴったりの様子で、結城が篠宮に抱きついて頰を寄せる。柔らかな髪に鼻先をくすぐられながら、篠宮は口許が自然に緩むのを感じた。こんなに喜んでくれるなら、買ってきた甲斐もあろうかというものだ。 「待ってて、お茶淹れるから! 篠宮さんも一緒に食べよ? ここのケーキ、甘さ控えめらしいから、篠宮さんにも気に入ってもらえるんじゃないかな」  結城がいそいそとキッチンに駆け寄り、戸棚から紅茶らしき缶を出してテーブルに置く。篠宮を椅子に座らせたかと思うと、結城は手早く皿とティーカップを並べ、瞬く間に午後のティータイムの準備を整えた。 「いっただきまーす!」  待ちきれないといった様子で篠宮の隣に腰掛け、結城がフォークを手に取る。本当に風邪で寝ていたのかと疑ってしまうほど、いつもに増して元気そうな声だ。 「美味しい! ね、篠宮さんも食べてみてよ」 「あ……ああ」  結城に促され、篠宮は自らもフォークを口に運んだ。僅かに焦げたキャラメリゼの風味が鼻を撫で、続いて果物の自然な甘みが舌の上に広がる。ケーキ自体は小ぶりだったが、泡立てた生クリームが別容器に入ってたっぷりと添えてあった。  篠宮はさらにケーキを一切れ口に含んだ。砂糖の入っていないクリームが、葡萄と林檎の爽やかな味にこくを加えてくれる。甘い物の苦手な篠宮でも、気がついたら次々と口に運んでしまうほど美味だ。これならばたしかに、午前中のうちに売り切れてしまうのも納得できる。 「えへへ、おいしー! 篠宮さんが買ってきてくれたと思うと余計に美味しい! もぉ篠宮さん大好き! ありがとう」 「ば、馬鹿……そんなに揺らすな。紅茶がこぼれる」  遠慮なく頬ずりしてくる結城を、篠宮は慌てて押しのけた。さんざん見慣れているはずなのに、こうして整った顔を間近に寄せられると、そのたびに今まで気づかなかった美点を発見してときめいてしまう。

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