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人目も気にせず
「あら、結城くん!」
木曜日、結城が出社しているのを見るなり、天野係長は笑顔で篠宮たちの元に駆け寄ってきた。
「あ、係長。会議終わったんですね。済みません、急に休んでご迷惑をおかけしました」
自分の席に座っていた結城が、立ち上がってぺこりと頭を下げる。緩くカールた、少し長めの前髪が頰にかかった。
「ううん。いいのよそんな事。それより、ほんと災難だったわねえ。もう身体のほうは大丈夫?」
「大丈夫も何も、本当にかすり傷だったんですよ。いちおう念のために検査はしましたけど、どこにも異常は無いそうです」
こんなに元気なんですと言わんばかりに、結城が大きく胸を張る。いつもと変わらないその様子を見て、天野係長もようやく安心したようだった。
「それなら良いけど……心配したのよ。篠宮くんなんか、真っ青になっちゃって。倒れるんじゃないかと思ったわ」
「え! ほんとですか? あのいつも冷静沈着、仕事の鬼の篠宮さんが?」
「本当よ。あんなに取り乱した篠宮くん、初めて見たわ」
天野係長が大きくうなずく。その返事を聞いた途端、結城はいきなり相好を崩して篠宮と視線を合わせた。
「えへへー。篠宮さん、そんなに心配してくれたんだ? 俺のことを愛してる証拠だね!」
結城がからかうような声を出す。みんなの前だというのに人目も気にせず、顔色を変えるほどに心配してくれたのか。言外に込められた意味を感じ取り、今さらながらに羞恥心が甦ってきた。
「あ、愛って……! 馬鹿、そんな訳ないだろう。上司として部下の身を案じただけだ」
胸の奥に矛盾を抱えたまま、篠宮は急いで眼をそらした。
結城の笑顔を見ただけで、胸の奥がきゅっと締めつけられるように切なくなる。この感情は愛以外の何物でもない。心の底ではそう自覚しているのに、他人の目や世間体ばかりが気になって、素直にその想いを口にすることができない。
「えーと……コホン。仲が良いのは結構だけれど、お二人とも、イチャイチャするのはプライベートの時だけにしてね」
わざとらしく咳払いをして、天野係長はすぐに話題を変えた。
「実はね、結城くんに朗報があるの。会議の後、部長から聞いたんだけど……おめでとう結城くん。晴れて、営業補佐から営業に昇格よ!」
「え! そうなんですか!」
結城が驚いて声を上げる。篠宮は感慨深い思いでその顔を見つめた。結城が営業として独り立ちするとなれば、篠宮が今まで一年近くにわたって続けてきた、彼への新人教育も無事に終了ということになる。
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