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たまには自分のほうから

「いきなり入院したりして、人を胸が潰れるほど心配させるような奴は、子供に決まっている」 「えへへー。じゃあ子供だから、おっぱい吸わせてよー」  子供と言われて気を悪くするかと思いきや、結城はかえって喜んで篠宮の胸に頰をすり寄せた。 「馬鹿。それじゃ子供というより赤ん坊だろう」 「あ、そっか。じゃあ、抱っこして!」  遠慮なしに飛びこんでくる結城の身体を、クッションの助けを借りながらなんとか受け止める。急に何かを思い出した様子で、結城は感慨深げに呟いた。 「いやあ、ついに兄貴も結婚かあ。三十近くなるまで、彼女のひとつも作らないから心配しちゃったよね。前に聞いたんだけどさ。社長の息子って聞くと、それだけで寄ってくる女の人がいるんだって。そういうのが嫌で、なかなか彼女も作れなかったって話してたよ」  金目当てで群がってくる女性たちがいる。どこかで聞いたような話だと思って、篠宮は結城の頭を抱きとめたまま考えをめぐらせた。 「あ……」  橘始。ふとその名が脳裏に浮かび、それにつられて、日曜日の出来事が次々と頭の中をよぎっていった。  友人になるという約束を交わしたものの、橘とはあれからまったく連絡を取っていない。たしか彼は、個展は一日(ついたち)から始まると言っていた。つまり明日が初日ということになる。  事故だの入院だの、ろくでもない出来事に紛れてすっかり忘れていたが、明日あたり結城と二人で行ってみるか。不意にそんな考えが頭に浮かんだ。橘のことを結城に紹介するいい機会だ。いくらただの友人とはいえ、結城に内緒でこそこそ付き合うのは気が引ける。変に隠し立てしては、後になって余計な誤解を受ける恐れもあるだろう。  もちろん、何でもかんでも恋人にお伺いを立てる必要はない。だが、自分にとって結城がいちばん大切な存在であることは間違いのない事実だ。恋人の友達として問題のない人物かどうか、最初に会ってその人となりを見極めてもらったほうが、結城も安心できるに違いない。  友人が麻布で油絵の個展を開いているから、君も一緒に行かないか。篠宮がそう口にしようとしたその時だった。 「あ、篠宮さん。明日なんだけどさ。午後から、ちょっと実家に帰ろうと思うんだ。せっかくのお休み、篠宮さんと一緒に過ごしたいけど……ごめんね、急な話で」 「明日か」  たまには自分のほうから結城をデートに誘ってみよう。そう決意した矢先に出鼻をくじかれ、篠宮は心の奥で少しばかり落胆した。

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