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帰り支度

 ()りガラスでできた小さな窓から、明るい朝の光がぼんやりと透けて見える。  石鹸の香りが満ちる浴室の中で、篠宮は左手を伸ばして蛇口の下にあるレバーをひねった。  手のひらで温度を確かめ、腕から肩口へ向かってゆっくりと湯をかけていく。ぴりぴりする刺激に慣れたところで眼を閉じ、篠宮は頭から思いきりシャワーを浴びた。身体の奥にわだかまっていた眠気が、熱い湯のおかげで一気に霧散していく。  浴室を出て軽く水滴を拭き取り、用意してあった下着類をまとう。髪を乾かして身支度を整えると、篠宮は脱衣所から廊下に続く扉を開いた。 「へへへー、篠宮さん見ーっけ!」  角を曲がったところでいきなり抱き締められ、篠宮は面食らった。恋人が風呂から上がるタイミングを見計らって待ち構えていたらしい。 「相変わらずスキンシップの激しい奴だな……」  文句を言いつつもキスを交わし、篠宮は結城に手のひらを預けたまま台所へ向かった。 「だって……昨夜はちょっと物足りなかったんだもん。篠宮さん、先に寝ちゃったじゃん? 俺はもっとしたかったのにさあ」 「物足りないって……三回もしておいて何を言っているんだ。冗談じゃない。あんな、夜中の三時近くまで……」  昨夜のことを思い出し、篠宮は頰を赤らめた。男性はいちど精を放つと、それまでの欲求が嘘のように消えて無気力になるというが、結城にはそれが当てはまらないのだろうか。人の弱点を知っているのをいいことに、延々と意地悪く攻め続けるなんて、声を我慢するほうの身にもなってほしいものだ。 「だってー。篠宮さんが可愛すぎてつい……え、篠宮さん。もしかして嫌だった? 俺、回数減らしたほうがいい?」  結城が泣きそうな顔で恋人の眼を覗きこむ。 「べっ、別に嫌というわけじゃ……」  篠宮は慌てて答えを返した。押し寄せる快感に我を忘れ、もっと激しく攻めてほしいと泣き叫んだのは自分のほうなのに、実は嫌だったなどと今さら言えるわけもない。  仏頂面で眼をそむけ、篠宮はコーヒーの湯気が立つ食卓へ向かった。時刻はもう十時だが、出かける前に何か少し胃に入れておかなければならない。テーブルの上には、結城が用意してくれたオムレツやサラダが所狭しと並んでいた。 「……あれ? そういえば。篠宮さん、もう家に戻るの?」  篠宮がスラックスとワイシャツを着込んでいるのを見て、結城が首を傾げた。  金曜の仕事帰りに結城の家に寄ると、翌日は必ずスーツを着て帰宅することになる。ワイシャツを着てきっちりボタンを閉めているということは、つまりは帰り支度をしているということなのだ。

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