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外せない用事

「ああ、篠宮さん。お待ちしていましたよ」  ガラスの扉を押して中を覗きこんだとたん、以前にも聞いた穏やかな声が、なんの前触れもなく篠宮の耳に飛び込んできた。 「済みません、連絡も無しに来てしまって」 「いえいえ、いいんですよ。わざわざお越しくださってありがとうございます。今日はスーツなんですね。お仕事の用事があったんですか?」 「いえ、そういう訳ではないのですが……なんとなく」 「そうですか。よくお似合いですよ。さすが、着慣れているだけありますね」  相変わらずの柔和な笑みを見せ、橘は奥のカウンターから出て篠宮のほうに歩み寄った。  遠慮がちに歩を進めながら、篠宮は辺りを見回した。それほど広くはないが、アマチュアの画家が個展を開くにはちょうどいいスペースだ。  白い壁には、大小さまざまの絵画がずらりと並んでいた。いずれも落ち着いた色彩で、風景画もあるが肖像画のほうが格段に多い。  客は二、三人といったところだ。週末で、しかも初日ということを考えれば少ないかもしれない。だが無名の素人が趣味で描いている絵ということならば、これでも上々のほうだろう。  不意に立ち止まり、橘が何かを探すように篠宮の背後を見遣った。 「あれ。お一人ですか? お連れのかたは?」 「それが……誘おうと思ったのですが、今週末はどうしても外せない用事がありまして」 「そうですか、それは残念です。先週お話をうかがって、私もぜひお会いしたいと思っていたのですが。他に用事がおありなら仕方ありませんね。篠宮さんだけでも来てくださって嬉しいですよ。まだまだ拙い絵ではありますが、どうぞゆっくり見ていってください」  はにかむように微笑んで、橘は額縁の並んだ壁を指し示した。 「人物画が多いんですね」 「ええ。最初の頃は風景画を描いていたんですが……そのうちに、人の内面というか、その人が内に秘めている隠されたものを描きたいと思って。若い頃にさんざん騙され続けてきたせいか、これでも人を見る目はあるつもりなんですよ。本当に美しい人は、絵に描いても美しいんです。下賎な心の持ち主は、いくら見た目が綺麗でも化粧で誤魔化しても、どこかに醜さがにじみ出てくる」 「それは……モデルになるほうにとっては、怖い話ですね」 「安心してください。ここにある絵のモデルは、みんな美しい心の持ち主ですよ。私は、綺麗なものしか描かない主義なんです」  壁に沿って歩きながら、橘は並んだ絵について解説していった。いずれも繊細な筆使いで、色合いも落ち着いて調和がとれている。面白味にはやや欠けるかもしれないが、見ていて心が安らぐ絵だ。

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